どうも、ひのきですm(*_ _)m
本日はこちら、旗岡八幡神社です
大きく由緒書きが掲出されております
創建は1030年、平忠常の乱平定に向かった源頼信公が宿営の際に霊威を感じ氏神様を祀ったのが始まりとあります
待って!! この辺りの八幡様といえば将門の乱と八幡太郎かと思ったら違う人出てきた!!!
長くなるのでこの話は後にしましょう
思っていた以上に大きいです! 広いです!!
こちらの建物? 大絵馬があったらしいのですが現在は社務所で保管されているとのこと、はて?
こちらが手水舎
水鉢の石が物凄く味があって好きです
こちらが御社殿
うん、八幡様らしいとっても雄大で多らかな空気
隣は公園なのですがこちらの境内の中にも沢山の子供たちが走ってきたりして大きな力で守られている感じがします
ちょうどこどもの日が近いとあって鯉のぼりが掲げられていたのですがこの日はほとんど風が吹かず垂れたまま
参拝も終わり次の神社へ、、、ええいっ、折角だから国旗と鯉のぼりを揺らしておくれーっ
。。。。。。うわっ、吹いた!!\( ´ω` )/
左になんか白っぽいの写っとるけどなんぞこれ?
八幡様は軍神として祀られていますけどね、現代の世にあってはとっても優しく見守ってくれる父親のような
いや、おじいちゃんのようなそんな雰囲気がどこの八幡神社でも感じられるわけです
私自身がお宮参りをした時から見守っていただいているからそう感じるだけですかね?
一応、産土神様が八幡様だと言うことを知る前から同じ感覚なんですけどね(*^^*)
素晴らしい旗岡八幡神社でした
ちなみに由緒書きにもありましたが旗の台、旗岡というのは追討使としてやって来た頼信が源氏の旗を立て陣を敷いた事が地名の由来になっているんですね
さて、後書きです
調べてみると、母方の祖父が将門公であるようですが、なんともまぁ血筋と言いますか、当時がそういう時代だったというべきでしょうか
忠常もまた、揉め事により国司を殺し国府を焼き払ったことにより討伐令を出されます
力を持った国司の横暴は許し難いものの逆らえば朝敵とされるのでひたすら耐えるか逆らって反逆者となるかの二択、という当時の図式が見えるようです
先に送られた追討使(この人も 平 )はなかなか鎮圧することが出来ずに解任、続いて任命されたのが源頼信
一説によると頼信と忠常には信頼関係があったらしく、また忠常が既に疲弊しきっていたことから戦うことなく話し合いだけで降伏
後に京へ護送されている途中で病死したそうなので最初の追討軍と死力を尽くして戦ったのでしょう
後任としてあっさり鎮圧してしまった、最初から行かせたら良かったのに感のある源頼信という人はなんと関白 藤原道長にも使えたという人物だそうで、またしても教科書で見た名前が追加されました
そして頼信の子が頼義(見た事ある名前だぞ?)
さらに頼義の子が義家、、、あっ
つまり、八幡太郎のおじいちゃん!!
そして勿論のこと、頼信から数えて6代後に頼朝が居るということになります
歴史ってすげー!!!!(←遅いよw)
いや、ほんとね、もう何度書いたかもわかりませんけどもね
大河とかテレビ番組とかね、時間の都合上短くしたっていいからそういう構成力で教科書作ってくれてたら絶対勉強面白かったのに!!!
まぁ、、、仕方が無いことくらいわかりますけど、極広く極浅くの教育ってやつはほんと、覚えるだけで終わりですね
興味を持って見聞きさえすれば、権力を持つ側の利点や問題点、権力を持たぬ側の問題点や対策なんかが今の時代と比較出来て、もっとこう、社会的にもう少しは上手にみんな生きられるんじゃないかって思ったりするんですけどね
さすがにそれは言い過ぎか
ちなみに、辿れば私も源氏一派の子孫ということになりますので(末端の末端の末端なので家系図なんか無いですよ)、今思えば、お宮参りで偶然選ばれた産土神様が八幡様なのも何か繋がりを感じますね
って、源氏子孫の多さと八幡神社の数から言えば偶然というほどでもない確率ですけどw
というわけで、本日の後書き、終わり!!