日々是"吉"日

ゆるゆるなスピリチュアルでパワースポットやパワーストーン、原石、お香などを楽しんでいる日々の日記です。

将門伝説 兜神社(鎧稲荷神社)


どうも、ひのきですm(*_ _)m



本日はこちら、兜神社


一見、普通によくある街角の神社さん、といった感じです


その名の通り、こちらは日本橋 兜町 に鎮座しているのですが兜神社が町名の由来となっています


地図を見てみると区画は縦長で丁目などの無い単独の町名になっています

兜神社がちょうど最北、まさに兜の位置に鎮座している兜町東京証券取引所、日本最古の銀行である第一国立銀行などが集まる世界屈指の金融街として高度成長期の日本経済を引っ張った街


ビルと高速道路の谷間にあって不思議な静寂が支配する境内、兜 が刻まれた小さめの手水鉢にはしっかりと水が張られていて屋根が無いのに清潔感があります


こちらが御社殿、やや緊張します

神社としての創建はやや新しい1878年、現東京証券取引所関係者により創建され、御祭神は倉稲魂命主祭神として右に大国主命、左に事代主命を祀る、とあります

国と経済の繁栄、発展の願いが込められた神社


そして社殿の左前に座するこちらの岩


これぞ、兜町、兜神社の由来となった兜岩です


1845年の記録には鎧の渡し(現鎧橋)脇に鎧稲荷神社と兜塚が祀られていたそうでその頃の兜塚は源義家公を祀っていたそうです

1871年に兜橋(現兜神社脇)と鎧の渡しの中間当たりへと遷され、兜塚は兜神社となり鎧稲荷が合祀されます

塚の方が神社を合祀する珍しいケースではないでしょうか、主祭神源義家公、合祀に倉稲魂命となります

1874年、源義家公を祀るのをやめ、三圍稲荷境内社の福神社から大国主命事代主命を勧請したとあります

あっ、参拝したことがあります! こちらですね!


さて、由来については諸説あり(個人所見も含めて考えてみます)


まず、この辺りはもっと川幅が広く、八幡太郎義家が奥州平定へ向かう時に波が荒く船が沈みそうになったので鎧を投じて祈ったところ波が弱まり無事に渡れたというのが一説ですので西暦1050年前後の事

もしかしたら後年になり兜だけ打ち上げられたか網に掛かって引き上げられた事で塚になった可能性も考えられますね


続いては同じく奥州征伐に向かう際にこの岩に兜を掛けて戦勝祈願をしたことから兜岩と呼ばれたという説

こちらの説だと兜を掛けた岩が塚と呼ばれた理由に結びつかなそうですが、いつしか兜が埋まっているとされて塚ということになってしまったという可能性も考えられます

ただ、じゃぁ鎧の由来はどこから来た? となってしまい、さすがに「兜だけじゃアレだから神社を祀って鎧とセットにしよう」なんてことは無いと思いますがどうでしょうね


続いては1080年頃の後三年の役において奥州征伐を終えた義家が東夷鎮定を祈願して兜を埋めて塚としたという説

戦いを終えた兜を埋め祀ることで再び戦乱が起こらぬように祈ったというのは考えられるのですがこちらも鎧はどこへ?と感じます


もしかしたら奥州征伐に向かう時に海へ鎧を投じ、帰って来た時若しくは後三年の役の際に兜を埋めて行ったとすれば結構合致するんじゃないでしょうか


そして最後の説


940年、承平の乱において平将門を討ち取った藤原秀郷が兜を埋め供養をして、首だけを京都へ運んだという説


こちらも鎧はどこに?という事になるのですが、もしかしたら鎧も埋めていたかもしれないし実は兜だけで鎧はその後に義家が投じた、埋めた可能性もあります


なぜ義家だったり将門だったりするのでしょう



可能性論ばかり続いて恐縮ですが、こればかりは真相が分からないから仕様が無い、想像と妄想の歴史浪漫ここにありですよ


まず、これまでの神社記事においても数多く登場する源義家八幡太郎と呼ばれ由来を持つ八幡神社が関東各所に鎮座します

それが明治期において祭祀を廃されるとは何事か?

まだまだ少ない知識ではありますが、祭神が廃されたり変更を余儀なくされたというのはほとんど聞いたことがありません

そう、神仏分離と将門信仰です

神田神社もまた、将門公を祀っていることを咎められ一時祭神から外していましたし、別の神社においても祭神名を他の神名に変更したということにしてその実はこっそりと将門公を祀り続けたというところもあります


そうです、これですよ!!



明治7年 1874年

源義家公の祭祀を廃して大黒恵比寿神を勧請したとあります



奇しくも明治7年 1874年、明治天皇が幸行される神社に朝敵祀ること勿れと明治政府により神田神社主祭神から将門公が外されたのと同じ年です


臭いますね


そんな偶然、ある?


つまるところの、まぁ想像ですけど、元々将門公(の兜)を祀っていたんですよ、だからこそ、祭神変更を余儀なくされたんでしょう

じゃぁなぜ義家公としていたのか


神仏分離の際も、御祭神が咎められる可能性があると別の御祭神を祀っているということにして逃れようとしたというのはこの時代によくあったこと、というのを私は名古屋の日泰寺境外社で学んでおります


じゃぁなぜ源義家だと言い張った上でそれでも祭神を廃さなければならなかったのか

だって、そうでしょう? 勝負の神であり八幡神の化身ともされる八幡太郎を廃するなどという罰当たりな事を証券取引という日本経済を背負う方々が独自に行うでしょうか、神道に重きを置く(重きを置きすぎて神仏分離という暴挙を犯しましたが)明治政府が八幡太郎を廃するよう命じるなんてことがあるでしょうか

大黒様恵比寿様を勧請する為に義家公を廃するなどというのも理由にはなりませんし、二神を呼ぶことで主祭神を廃さなければならない不義理を鎮めたという方が合理的な気がします

まぁ無理に合理性だけを求めてしまうと逆に事実を見失う場合もありますけどね( ̄・ω・ ̄)

と言いながらこちらも合理性には欠けますが、実は兜塚の主である将門公を祀っていたが咎められそうだったので鎧伝説の方の義家公を祀っていたことにしたものの疑いは晴れず、というのが一番しっくりくる理想的な妄想ストーリーです


もう表向きが変わろうが何が何でも御祭神を守りたい神社(民衆)側と何が何でも将門(の疑いがあるもの)を排除したい政府、といった感じで


考察ついでに、実は鎧神社の方も将門公の鎧である可能性は? と考えてみたのですが、こちらも各地に伝説が残っていて新宿大久保の近くに鎧神社があるようです


なんだとっ、参拝せねばっ


というわけで、何とも不思議な空気感漂う神社でございました




鎮 という文字がぴったり当てはまるような場所


この感覚が八幡様由来なのか、将門公由来なのか


そういえばそれぞれの神社で感じる雰囲気には似ているものがあるような気がするのはどちらも勝負の神様であり戦神だからでしょうか