どうも、ひのきですm(*_ _)m
本日はこちら、近森稲荷神社です
この日、ついに降り立ったその地はここ、笠間
ピン、と来られた方もいらっしゃるでしょう
笠間と言えば日本三大稲荷とされる笠間稲荷神社の鎮座地でございます
ちなみに三大稲荷については諸説ありまして、自ら名乗りを上げているのが総本宮である京都伏見稲荷大社、そして茨城の笠間稲荷神社、佐賀の祐徳稲荷神社、岡山の最上稲荷と四社あります
個人的に、てっきり伏見さんと豊川稲荷、笠間稲荷だと思っていたのですが(諸説あるのは重々承知の上で)、調べてみると豊川さんは自ら名乗りをあげて居なかったというのに驚きました
勿論、名乗りを上げてこそいませんが三大稲荷と評される社が他にも各地にあります(*^^*)b
というわけで、稲荷信奉者の端くれとしてはいつか参拝せねばと思い続けてきた中での昨年12月半ば、漸くの参拝タイミングを掴むことが出来たのでした
笠間駅を出ると大きな看板で往路復路を矢印で示した地図看板がありまして、基本真っ直ぐなのでこりゃわかりやすい、とスマホのマップは閉じて看板通りに進むことにしました
そして歩き始めたわずか1~2分、まさかの本日第一鳥居発見と相成りまして、いや、でも、今日は笠間さんに全力を傾けるべく罷り越したので申し訳無いが素通りをさせていただこう、と考えたわけです
だがしかし、鳥居の前からの一礼くらいはして行かねば失礼と言うもの、と向き合ってみたところ社殿境内の雰囲気に惹かれ、そして大きな由緒書きの石碑
ここは、、、とキョロキョロして目に入った社名はなんとお稲荷さん、そりゃ無視出来ねぇ!!
改めまして、こちら、近森稲荷神社です
街区画の反対側まで繋がる境内は盆踊りの櫓や屋台なんかも置けそうな広さです
そしてこの立派な由緒書き
無礼ながら、大きな笠間稲荷が鎮座する街なので周囲にこの規模の稲荷社があることに驚きましたがお稲荷さんこそ庶民の味方、崇敬の強い地域であればあるほど沢山あって当然ですね
御祭神は宇迦之御魂神、稲荷社ですが神狐ではなく立派な狛犬さんが守ってらっしゃいます
現地では反射で読みづらく由緒を把握せぬままにご挨拶したのですが、なんとも朗らかで温かみのある優しい雰囲気、でもその中に少しだけ凛とした芯を感じるお社でございました
なんでしょう、いきなり良い気分です(*´ω`*)
さぁーて、いざ笠間稲荷!! と再び歩きだしたのですが少し歩いたところで、それこそ急に、ふと不思議な気持ちになりました
あれ...? この道...あってる??
でも真っ直ぐ行くだけの道順だったし、だからこそ自信満々で進んだのだけど、まぁ一応とマップを開く
道
一本
間違ってる!!!!!(爆)
こちらが案内看板
シンプル過ぎて勘違いしたのでしょう
近森稲荷をわかるようにしたマップがこちら
往路と復路が一本隣ということでそれをそのまま一本ズレて間違えたようです( ノ∀`)タハー
あれ? 改めてGoogleマップで経路を調べると看板と同じ往路が示される、、、つまり、、、これやっぱ呼ばれた系???
というわけで、調べました
石碑の文字は反射でやはり読みづらかったので意外としっかりとした観光情報を載せてらっしゃる笠間市のページを参考にさせていただきました
時は鎌倉、1219~1235年に初代領主 笠間時朝が築城するにあたり佐白山より阿武権現と黒袴権現が移されたのがこの場所
後の1872年、神仏分離令により阿武権現のみが佐白山の佐志能神社へ戻されたそうです
ちなみに黒袴権現だけがそのまま遺されているということで、あの参拝時になんとなく感じた独特の雰囲気がそれだったのかな、なんて思ってみたり
ちなみに黒袴権現が遺された理由が「黒袴権現がどういった神なのかが理解されていなかったから」とされており、それによって稲荷神を合祀したとあります
ん? ちょっ、ちょっとお待ちなすって?
いや、街の方がそう言われているのですからよそ者がどうこう言う話ではないのですが
神仏分離によって山へお戻りいただいたというのならばその時点で既に神道の神がここにいらっしゃったはずなのに稲荷様が合祀された方が後とな?
そもそも神がいらっしゃらなければ仏を分離する理由が無いですよね?
調べてみるとこの疑問がなかなかに難しいところへと向かってしまうことになります
神仏分離というのは、神仏習合によって神と仏が併せ祀られていたところに神の権威を知らしめるため仏を追い出したというもの
つまりは神仏混在の寺社においては仏を別の地へ移し神社とする、仏だけの寺は一定の規模に届かなければ潰す、的なことが行われていました
なので文字通りの分離という部分ではなく廃仏毀釈的な山から降ろされた両権現だけがここにいらっしゃったのならば敢えて移す必要は無かったはず、ただ規模が小さいとして取り潰そうとしたのならば、廃仏を避けるために山へ戻されたという説明が成り立ちます
ただし、謎が謎を呼ぶ状態なのは、阿武権現が移された先が山上の佐志能神社だということ
神社!?
神仏分離とはいったい
まぁ神仏分離とそれによって広まった廃仏運動もそれぞれの地域により厳しさがマチマチだったようなので移しましたよーって行先を黙っておいたとか佐志能神社の方で暫く阿武権現の名を隠していたとかそういった事情があるかもしれません
そして一番の謎が、なぜ黒袴権現だけ残されたのかということですw
権現を一体残すのであれば二体残していても良かったのではないでしょうかね? 謎だ
まぁ、佐白山の方で よくわからん権現は受け取れぬ!! と断られた可能性もありますし、周辺住民としては一体は残っていて貰いたかった可能性もあります
でもね、結局どういったご利益があるかもわからなかったから馴染みのあるお稲荷様を合祀した、というここが最強の謎です
よく分からない権現 という割には祭礼の日に木版刷りの権現御璽を氏子に配っていたのだそうです
よく分からない権現の御璽など作りますか?配りますか?頂いて嬉しいですか?
稲荷御璽が併せて配られるようになったのは後のことだというのでそもそもが権現様を崇敬していたと考えるのが普通じゃないでしょうか
さぁ、都市伝説的な思考で考えてみましょう(もはやそれしかない)
実は黒袴権現の正体ははっきりしていたがなんらかの理由から素性を隠された存在だったのではないか
その理由があって佐白山へ戻ることは許されなかったが地域の人々は稲荷を祀ることでさらに存在を忘れさせると共に神社として存続させ、権現を崇敬し続けたのではないか
であれば、現在でも よく分からないねー ということにしておきつつもここに黒袴権現が存在するという事実を隠すことなく遺すことが出来ていると考えることも出来ます
勿論、隠していたことによって本当に本来の姿が分からなくなってしまった可能性もあります
実は佐白山に元々祀られていたのは三権現で小聖権現もいらっしゃったそうなのですが、こちらに至っては山から降ろされた記録も無くそれこそ本当の行方知れずになってしまったというのです
そもそも、佐志能神社の存在も延喜式神名帳に載っていながら存在が不確定とされるなど謎が多いのですが、これこそ歴史の闇
徳蔵寺と正福寺による争いが起きていた中、正福寺からの求めに応じて援軍に来た塩谷氏が徳蔵寺を殲滅
その後、正福寺側の言い分では更に塩谷氏が正福寺までも焼き討ちした、また笠間氏(塩谷氏)側では守ってやったのに敵対して来たから壊滅させた、というようにかなり混乱したことで史実が混濁した事が原因でしょう
つまり、勝手に推論したように隠された真実があるのはほぼ間違いがないと言って良いのではないでしょうか
いやー、これは笠間における結構な大事だと思いますが道を間違えずに笠間稲荷へ行っていたらはたしてここまで調べたでしょうか
これ、やっぱ、呼ばれてたんだろうな...
ちょっと申し訳ないけど、素敵な神社だから勿論記事にはするけどまさかここまで調べるのに時間が掛かってここまでの謎多き歴史勉強に陥るとは思いもしませんでしたw
というわけで、ちょっと道を修正して笠間稲荷へと向かいます!!
いつものようなシンプルな記事となるか!? はたまた今回のような歴史のお勉強となるのか?!
どーーーなってしまうのーっかっ!!
つづく