どうも、ひのきですm(*_ _)m
鹿島神宮の後篇でございます!!
こちらが武甕槌大神の荒魂を祀る奥宮
1605年、家康が関ヶ原戦勝のお礼に本宮として奉納したそうですが14年後に秀忠公により新たな社殿を建てられることとなりこちらに遷されたそうです
あっ、、、これは、、、(あとがきへ)
ぐるりと本殿の裏手をまわることができまして
気付かず写りこんだ手とスマホの影がカッチョ悪くてすみませんw 御神木に触れることが出来ます
朝陽の中、静かな奥宮で御神木に触れることが出来るという幸せはこの上なく、荒魂が祀られていますがとても朗らかな気持ちになれました
さて、ここで道が枝分かれなので先に要石へ
石像が見えたのでスマホを構えたらこれですよ
鯰を抑えつける武甕槌大神
この絵は見たことがあったのですがずっと刀を刺していると思い込んでいたのですが、石の棒、つまり要石だったんですね
要石ってナマズの頭に巨大な岩を置いているんだと思い込んでおりました
まさに思い込みだらけです……|木|ヽ(・_・`)反省
やばくありません? 結構山歩きはした方ですけれども木漏れ日がこんなに綺麗な水玉模様になるなんて見た事無いんですけど(気付かなかっただけかな)
まだまだ経験が浅いだけですかね(´>∀<`)ゝ
歩いていると水玉がぽわんぽわんと周りを動いているようでとっても幸せな気持ちになりました
そして着きました、要石
なんと水戸黄門が七日七晩掘らせたのに先が見えなかったとかどんだけ深いんでしょうか!!
どきどき。。。どきどき。。。
要石、ご対面!!
あれっ???
すみません、前述のようにもっと太い(大きい)と思っていたのでキョトンとしてしまいましたw
とはいえ、見れば見るほど凄いですね
これがずーーーっと奥深くまで刺さっていると考えると、まずはそんな長い石をどうやって切り出したのか、そしてどうやって立てたのか、さらにどうやって折れることなく差し込めたのか
本当に神々しい
天辺が少しだけ窪んでいるのが 凹 ということでしょうか、香取さんの要石が 凸 だそうです
ただね、神聖な場所ですからお金投げるのやめましょ?
基本的に御神域にお金を投げたり置いたりするのは不浄であり穢す事です
ほんと、やめましょう
どうしてもお賽銭箱が無い場所でご利益欲しさにお賽銭を供えたければその境内にある拝殿とかのお賽銭箱に入れたり奉納金としてお納めください
勿論、神社サイドからもお賽銭は置いていてくださって構わないですよーっていう場所はその限りではありませんが
さて、戻りまして石段を降りていくとこちら、大国主命を祀る大黒社
明治以降に鎮座されたという新しめのお社です
そして御手洗池
1日に40万リットルも湧く御神水でございます
こちらに柄杓がありまして汲むことが出来ますが一応、飲用の場合は煮沸するよう注意書きがありました
このとっても素晴らしい空間、しばし深呼吸で身体の隅々までマイナスイオンと御神威を取り込みたくなる場所ですね
御手洗池から奥宮までの上り石段で切れてしまった息を取り戻しつつ素晴らしい参道を歩いて戻ります
楼門を出ようとして気づきました、内側の左右
左右対称の雷と日月?と感じたのですが見れば見るほど右手の方は赤い丸なのかなんなのか、なぜあの時パッと日月だと思ったのか今ではわかりません。。。
御神木が使われているのでしょうか、背後に御幣も供えられていて唯ならぬ迫力を感じました
それでは楼門の外に鎮座する境内社です!!
手水舎の脇から奥へ入れるのですが少し見えづらいからか参拝される方はほとんど居ませんでした
各お社の扉にお賽銭用の穴は空いているのですが少し狭かったりもしますので後でも先でも構いません、まとめて手前のお賽銭箱に入れましょう
参道右手が素戔嗚尊を祀る須賀社
突き当たりは何も無いようで踏んづけてしまいそうになりますが気を付けましょう(危うかった)
こちらは境外社で経津主大神を祀る沼尾社と天児屋根命を祀る坂戸社の遥拝所になっています
遥拝の際はこの基礎石の上に乗るのか手前からなのかよく分からなかったのですが失礼に当たるといけないので乗らずに手前でご挨拶しました
左手には三社並び、奥から
高龗神闇龗神を祀る津東西社
そして最後は参道の途中に鎮座するお稲荷さん!
あー、、、やっぱ落ち着きますね、御祭神は保食神
見てください!! ちょっとタヌキのような迫力を持った凄く凛々しい神狐様!!
物凄く好きです(*´ω`*)
というわけで、当たり前ですが物凄くボリューミーだった鹿島神宮でした!!
境外末社から凄かったですもの、えぇ、えぇ
参拝出来てよかった、と心から思える素晴らしいパワースポットでございました
出来ればもう一度参拝して、鏡石を拝見したいな、と思っております
皆様も、是非(*^^*)b
あとがき
俗説とも言えるかもしれませんが、家康と秀忠の仲の悪さについてですw
諸説ありすぎますが概ね私の都合の良いように繋げると、家康は実は刺客によって殺害されておりその段階から影武者が本人を演じていたのですが(ここはまぁ浪漫ありすぎですかね)、当然面白く無いのが息子の秀忠!!
影武者を使って家康ここに在りと示しつつ地固めをしたい派と偽物など排して自分がトップになりたい秀忠は事ある毎に反目するもののいつも家康側に先手をとられ後手後手に(ここからの説は家康が存命であっても仲が悪かった場合にも適用されますね)
ようやく征夷大将軍を譲るかと思いきや大御所として実権を離さなかったり、徳川絶対政権による平和な世になっていたにも関わらず大御所の隠居城として造られた駿府城が箱根ー江戸城方面に対してガッチリと守りを固めた堅城だったなどなど面白い考察がたーくさんあるのです
でね、偉大な父が建てた本殿を僅か14年で奥に追いやって新しいのを建ててしまうとか凄くない?と思ってしまったわけです
もちろん、考え方によっては本殿よりも奥宮の方が大事であって(私はそう思います)息子が奥宮を建てるよりも父の建てた大切な社殿を奥へ移したという解釈も出来ます
うーん、、、いろいろ面白い(* 'ω' *)
いや、ほら、建てたばかりの社殿を奥へ遷すという大掛かりな事までして新しい社殿を建てたかったってどうなんだろう?しかも関ヶ原戦勝という凄い成果を記念した社殿なのに、です
しかも後から建てたのが四棟複合社殿という父のものを大きく超える規模のもの
まぁ親父さんが、おうおうやりなさいやりなさいと言ったならばアレですが、どうも俺が親父より凄いの建ててやるんだ!!っていう風にとれてしまうのは私の心が歪んでいるのでしょうかw
特に秀忠の社殿造営が何を理由としたものなかというのがちょっと調べてみたのですが分からなかったんですよね(´・ω・`)
神代の歴史は勿論のこと、僅か数百年前の事ですら(いや、現代の事ですら)ハッキリと真実が分かっているわけではありませんからね
神社巡りを通してこういった歴史浪漫に触れられるというのも楽しみのひとつであります(*^^*)