どうも、ひのきですm(*_ _)m
本日はこちら、諏訪大社下社 春宮
おぉ、確かに秋宮よりも境内が細い感じはありますが左右を木々に挟まれより真っ直ぐな御神域が素晴らしく感じます!!
こちらも立派な注連縄の神楽殿
しかし、どうしたことかこの人気の少なさ
とはいっても勿論三賀日ですから途切れることなく人は来るのですが秋宮とは大違いです
そのお陰でとても静かに御神気を感じることが出来ます
神楽殿右手には立派な御神木
こちらは先が二股になっている結びの杉
右斜面に石の玉垣が
な、、、何も無い?
こちら、ちょっと情報が見つからなかったのですが後に出てくる 穀の木 が小さく生えていたのかもしれません
あ、あれ? 上下四宮とも山を御神体として夫婦神が祀られていると思うのですが上諏訪として建御名方神だけが祀られている?
そしてこちらも右手前に一之御柱
その後ろ、木々の隙間から四之御柱が見えます
こちらが弊拝殿
なんでしょう、、、多分に賑やかさと日と陰の違いが影響している感は否めませんが、秋宮に比べて静かで厳かで深としています
勿論、どちらも素晴らしくどちらも素晴らしい空気感ですし似ている雰囲気ではあるのですがこちらの方が 鎮 という感じが特に強いのです
重ね重ねですが、人の多寡、陽差しの有無だけではない気がしました
凄く居心地が良く、トレッキングで深い森の中まで来た清々しさにも似た神聖さはまるで鞍馬山の上で感じた雰囲気にも似ています
左手前が二之御柱
奥に見えるのが四之御柱です
境内左手には高志沼河姫を祀る子安社が鎮座し、こちらにも底の抜けた柄杓が供えられています
以上、春宮でした!!
後で調べると近くに境外社や石仏もあったようですが気付きませんでした(´>∀<`)ゝ
そう、秋宮に比べてしまうと規模が小さくなっているのですが、伝わりますでしょうか、とっても素晴らしい境内なのです
こうして見れば見るほど、そりゃ木々の感じとかでしょ!と思わなくもないのですが、それでもやっぱり、何か空気感が凄く良かった感じがしたんですよね(*´ω`*)
さぁ駅へ戻るぞ!! と前の道を進むと道の真ん中にこちら
下馬走といい、室町時代から残る下社最古の建造物だそうです
なぜこんなところに?と思いましたが、今は道路になっていますがこの真下には御手洗側が流れているそうでして、そして昔はこの道が春宮専用の参道になっていたんだそうです
身分に関わらず何人も馬を降りなければならなかったという太鼓橋、間近で見ると結構な迫力です
ちなみに見た目では柵が中央だけなのですが立て札に 現在では神輿だけが渡ることが出来る と書かれておりました
これをよく読まなければついうっかり渡ってしまいそうですよね( ̄▽ ̄;)
珍しく先に立て札を読んだから良かったけどぼんやりしていたらサクッと渡ってしまっていたかも、と思うとちょっと危険でした(´-ω-`)
なぜ橋の端まで塞がないのか不思議ですが(あ、はい、駄洒落です)、皆様もうっかり足を踏み入れてしまわぬようご注意くださいm(*_ _)m
電車が大体1時間に1本なので秋宮春宮と歩いてまわるのに寄り道をしつつしっかりご挨拶しても2時間で余裕、寄り道無しで急げば1時間でもいけるかな、という感じでした
さて、、、上社が鎮座する茅野駅まで移動です!!
しかし、はて、確かに規模は秋宮の方が大きいし駅からも近いのですがこちらは別に遠いという程のこともない
秋宮に比べて規模が小さいとはいえ個人感では春宮の方が山を感じることが出来てとても素晴らしい
なのにこの人の少なさといったらどういうことでしょう、そもそも年始で賑わう出店も秋宮にしか出ていません
調べてみると納得、秋 春 という名称は毎年2月と8月に遷座が行われており8~1月は秋宮、2~7月に春宮に御鎮座されているんですね
つまり、この日1月3日は秋宮に神様が座られていたので地元の方の殆どが秋宮だけを参拝してらっしゃったという感じでしょうか
これで完全に 秋春前本 の順に参拝するというのが都市伝説であることがわかりました、前→本は当然としても秋春は季節により御鎮座が変わるのでそういう意味では参拝の時期により入れ替わるはずです!!
勿論、、、別の由緒や特別な理由が無ければ、ですが ^ ^ ;
ちなみに御神体が守屋山とされたのは三輪山の祭祀に因んだと言われているようで古来は 大祝 と呼ばれる御神職を御神体としていたようですので春と秋で住み替えられていたのかもしれませんね
そして謎なのは下社と上社、四社がある理由!!
これにも諸説あるようですが、なんと!!
(以下、勝手に脚色していますw)
建御名方神と八坂刀売神がささいなことから喧嘩になったのですがその怒りはどんどんと膨らんでしまいって激怒に至ってしまった八坂刀売神が湖の向こう岸へと出て行ってしまったというのです
だがしかし、東国三武神ともされる建御名方神、女子相手に弱い態度など見せることも出来ず 出ていった者など知るか!!勝手にしろ!! と二人は別居状態となりました、これが下社の出来た理由とされます
でも、、、寂しい、、、。そんな建御名方神が夜のうちに湖面を渡ってこっそりと妻へ会いに行った翌朝に湖面が凍結し盛り上がる御神渡りが現れるのだそうです
この御神渡りを判定するのが八剣神社、その記録は1443年から続く世界的にも貴重な連続記録となるそうです
廃仏毀釈のせいで維新期の一時期だけ途切れているそうです、、、全く、あっちもこっちも迷惑被ってますね
さて、このお話ですが別説や都市伝説も多いので色々と想像が膨らみます
そもそも、この伝説自体が都市伝説というか伝承のように感じます
もし、この伝承通りに八坂刀売神が出ていってしまったのならば御祭神が上社に建御名方神、下社に八坂刀売神となるべきだと思うのです
ただ、数キロにも及ぶ壮大な氷の道は神秘的ですから神が渡られたと崇拝するのもとても理解が出来ますし、神が渡ったかどうかを判定するのが当人同士達ではなく行事のような役割の八剣神社だというのもとても面白いです
逆を考えると、氷の柱が出来た年にだけ会う事が出来る冬の彦星織姫みたいじゃないですか?(≧∀≦)
そして橋渡しをするカササギこそが八剣神社です
あれ? これ、結構当てはまりませんかね?(*´ω`*)
諸説の中には上社と下社が喧嘩をしていた時期もあるというものもありましたが、もしかしたらその喧嘩こそがこの神話へと繋がった可能性も無くはないんじゃないかなぁ、なんて思ったりもしました
そうなんです、諏訪大社の創建は御柱祭最古の記録である西暦800年よりも古いとされているのに御神渡りの記録は1443年から、と643年ものひらきがあるのです
それ以前には氷の道は存在しなかったのか、はたまた過去の記録が消失してしまっているだけなのか
謎のひとつに、下社があとから出来たらしい雰囲気はあちらこちらで見掛けるのですがそれがいつ頃の事なのかというのをどこを見てもぼやかされていて分からなかったのです
つまりは、元は一緒に鎮まっていたけれど喧嘩による別居で別れた時だと考えるとその後の辻褄も合うような気がするのです
何らかの理由があって大社自体が喧嘩別れの分裂状態となり、その間を取り持ったのが八剣神社となれば御神渡りの神話が出来たのも御祭神が変わらないのも、全体的に納得がいきます(*´ω`*)
まっ、いつも通り、ただの妄想ですけどね!(≧∀≦)