どうも、ひのきですm(*_ _)m
やって参りました、日光東照宮です
凄いね、境内にも私の後ろにもいっぱい人が居たのに奇跡的なタイミングで人の写り込まない写真が撮れましたw 他の写真の大半はぼかし処理必須です( ̄▽ ̄;)
とはいえ雨のお陰か参拝者は想定よりもかなり少なく、小学生の集団を避けるくらいでしっかり回ることが出来ました
遺言により初代将軍徳川家康公が亡くなるとまず久能山に埋葬され一年後の1617年に創建された東照社へ遷され、1645年に東照宮になりました
知りませんでした、実は最初は小さな社であって今ほど豪華絢爛見事なお宮にしたのは家光公なんですね!!
てっきり、巷で言われるように神に近づこうとした家康が自らの威厳を示す東照宮を造らせたんだと思っていました、、、ほら、こうして実際に参拝することでちゃんと調べて事実を知ることが出来るようになりますね(何を偉そうにwww)
それでは...参拝!! 扁額は東照大権現ですね
ドーンと聳える五重塔は若狭小浜藩主酒井忠勝の奉納だそうで後に火災で焼失するもやはり小浜藩主酒井忠進により再建されたそうです
東照宮内へ入るには拝観料を収める必要があり正面の券売機で購入する事が出来ます
世界遺産にも登録されているこれだけの施設ですから拝観料制は賛成です(*´ω`*)
仁王像が守る表門で拝観券を見せて境内へ
内側には狛犬さんがいらっしゃいます
うわぁ...やっぱり凄いなぁ、広角写真だとあまりそう見えませんが建物の迫力が凄くて息を飲みます
まぁこの時はまだ正しい理解をせぬまま "誤解" していたのですがそんな気持ちもこの段階で綺麗に吹き飛び、ただ素晴らしいと純粋に思いました
24年前に一度来ているのですがその際は外国語での会話にカタコトでついていくのに精一杯でほとんど建物の記憶は無いのですがここからの眺めは蘇りました
いやー、こうして見るとほんと、人が少ないですね!! この先には何グループかの小学生集団に当たるわけですが
こちらは武者行列で使用される馬具や装束が収められる三神庫
あっ、あれが想像の象ですね!! って黒背景だと雨が凄いw
そしてこちらが神厩舎、つまり神馬舎ですね
ここに有名な三猿のレリーフがあったんですね! でもなぜ? 調べると馬を守るのが猿だったとか、、、あぁ! だから神馬舎の中にお猿さんも祀られていることがあったのか!!
三猿が有名ですがそれは猿の一生の中の一枚なんですね
ほうほう、八面あるんですねー...あ、五面撮って満足してた! そうそう、知らずに行くとこういう事になるわけですw まぁ、、、文化財は写真でも見れますからね!(元も子もない事を言うやつ)(つまり強がりw)
実はこちらお猿さんたち、平成の大修理で顔が変わったと言われているのですが決して修理失敗ではなく、そもそも初期の写真があるわけでも図面があるわけでもなく修繕の都度微妙に変化しているのだそうです
上の彫刻も凄く良いですね(´ω`)
それでは上へ向かいます
こちらもまた凄く豪華な御水舎、使用中止のままになっています
こちらは経典が収められている経蔵で八角形の輪蔵が設置されているのでそのまま輪蔵と呼ばれているそうです
鳥居の葵紋は渋く一体化されていて雨天ということもあって余り目立たず、それがかえって格好良いですね
さて、先へ進む人は少ないのになぜか詰まっている、と思ったら恐らく降りてくる小学生の集団で詰まっていて進めないようだ、ならばこの周りを観察しよう(*´ω`*)
いやー、ほんと、あっちもこっちも彫刻だらけで凄いですねー
こちらは鐘楼、この煌びやかでありながらの重厚感はツボです
これらの燈籠はオランダからの奉納...オランダ!? 凄い、ワールドワイドですね
この時、小さな違和感を感じたのだけれどそれが何なのかはわからなかったのですが、今写真を見てその原因に気付きました(っていうか説明読んでおけばわかるやろw)
葵紋が逆さになっている!!! これは正しい葵紋を知らなかったことによる発注ミスだとも言われていますがそれをそのまま設置するわけがない、となれば逆さ柱のように敢えて不完全にした、、、いや、オランダにその文化があるもしくはそれをわざわざ伝えて奉納品を作らせるような事があるだろうか
これには都市伝説的な陰謀話もあるようで興味深いですね、そもそも天海僧正自体が謎に満ちていて都市伝説の塊のような方ですからね( ˙꒳˙ )b
ん...? ...あっ!! 苔むした岩かと思ったら狛犬!!
ということは...反対にも!!( ´ω` )/
調べてみるとこちらは飛び越えの獅子と呼ばれる玉垣獅子なのですがお顔やポーズ、体型が物凄く可愛らしくてこの豪華絢爛な建物群にややそぐわない感じ、大きいけれど仔獅子が入り込んで隠れんぼしてる、そんな感じでとっても癒されます(*´ω`*) 階段が詰まってなかったら帰りも気付かなかったかもしれない
さぁ溜まっていた人が進みました、いよいよ上がります!!
いやー...陽明門、言葉を失います、物凄い彫刻ですね
右大臣左大臣も煌びやか
右が往路左が復路と分けられているのですがそれぞれに昇龍降龍が描かれていてまるで超豪華な額縁のようになっています
門を潜ると内側で先生が皆を集合させて何か説明をされていて溢れた子供達が門を塞いでいたからさほど人が居ないのに詰まってしまっていたんですねー、納得
内側には金獅子!!
もう一体は一向に先生の説明が終わる様子も無く諦めるか、と思ったのですが謎の第六感が 今撮れ、帰りだと忘れるぞ と告げてきたので子供に圧を掛けない程度に近づいて腕を伸ばしズームで撮影
なんとこれが重要な写真でした、記事を書いていて逆さ葵紋に気付いた時に陽明門にも逆さ柱がある事を知りました、ギャーーー柱なんて撮ってない!! と思っていたのですがまさにこの写真に写る左の柱がそうでした!!w
写真では三本分しか写っていませんが、上の写真と比べると彫りの向きが上下逆になっている事がわかります
これぞ、敢えて不完全(ミス)を残すことで未完成とし、満つれば欠けるを防ぐを目的としたものですね
いやー、、、陽明門、ほんと凄いわ、ここだけでご飯三杯いける(んなこたなぃ) さすがにこういう間近で見られる迫力は来なければ体験出来ない唯一無二なものですね
そしてこちらが唐門!! いや...すっげぇ...
勿論この凄い彫刻に目はいくのですが、それよりも柱など真っ白な中を濃い木色の龍と木が施されている、それがなんとも凄い迫力なんです
まさに、この門を潜る者をしかと見定めている、悪しき者は潜らせない、そういった雰囲気です
あれ、拝殿行けないんだ?と思ったら脇から入る順路のようですが混んでいたので先に奥宮へ向かう、、、と、居たー!! 東回廊潜り門の猫ちゃん、眠り猫!!
今となって調べてみると各所で、東照宮の中で元も有名な国宝、と説明されています...国宝だったのっ!?Σ(゚д゚;) あたしゃ日光と言えば猿で眠り猫も想像の象も来るまで知らなかったよ。。。
ほぼ調べていないけれど奥宮の階段が長い、、、ということだけは知っている、というか薄らと記憶にある
ふぅっ、はぁっ、ふぅっ、この登りがキツイということに身体が気付いてしまう前にサクサクと上がるべし!! だってほら、周りは素晴らしい神の山ですよ!!
のぉぉぉぉぉおおお、最後の最後に心臓破りの坂!!(´;ω;`)
これがまたちょっとゴワゴワして僅かに歪みもある石段が雨に濡れて滑ったら大惨事なので速度を上げるわけにもいかず結局太ももをぷるぷるさせつつなんとか登りきるのであった、、、ここで息を整える
と、そのお陰で気づいたかもしれない足元にひっそりと小さめな狛犬が、、、あら、だいぶ質素でいらっしゃる、と思ったのですがこれがまた息切れを整えているのを見てクスクスっと笑いつつお疲れさんって言ってくれてる気がしてね(*´ω`*)
こちらが奥宮拝殿!! 石段は200段あったんですね...
でも順路は先に裏へ回れ、となっています
こちらが御宝塔、青銅が垂れているのが美しく御前には鶴と獅子が一体づつ居ますね(最初鶴亀かと思った)
家康公の墓所と記されており、元の木造から石造になり地震倒壊により現在の唐銅製になったそうです
なんだろう、この不思議な感覚...所謂お墓とは違うような、確かに神社本殿のお背中で感じるような雰囲気があって
特にお声が聞こえたわけではなく特別な御神威を感じたわけでもない、でもここの鎮まった氣は他と違う、それが山全体からではなく確かに御宝塔を中心にしてこの境内を満たしている
こちらは叶杉、樹齢600年で願いが叶うんだとか
美しいですね
この時はまだ東照宮の由緒については何も知らないままだったのでここまで参拝というより文化財を見学に来たという気持ちだったのですが、なぜだかはわかりませんが御宝塔を一周したところで急に私の中で何かが変わり、心から感謝をお伝えしました
うん、来て、良かった、凄く
この後は本殿へ、撮影禁止なので画像は一切ありませんが物凄く素晴らしく奥宮に続いて感謝をお伝えしました
薄暗く重厚感あって凄い空間なのですがどちらかというとお寺のような雰囲気を感じました
またWikipediaによると相殿に豊臣秀吉公と源頼朝卿が祀られていると書かれている、なんですと?! 頼朝はまだ分かるけど秀吉?!
調べてみるとなるほど、元は摩多羅神と山王神が祀られていたのですが神仏分離により頼朝と秀吉があてられたようです、だから公式において全く触れられていないんですね、そして凄くお寺っぽさを感じた理由がわかりました
日光東照宮といえば家康公を 祀る と言われ墓所(寺)だと言う方を滅多に聞きませんが、それこそ神仏分離に対して神社色を強く押し出したことが原因じゃないかな、と思います
最後に、なんと鳴龍があるんですね! 薬師如来はこちらに祀られているようです(あれ、本殿で感じたのは???)
実はここが一番カオスでしてw 写真の枠外は子供達で埋め尽くされており一般の方にも先生の指示によってガンガン小学生たちが突き進む、後ろにもまだ居る、出てくる、、、あぁ、これは、、、
ふふ、さすがにこれは突き進むとイラッとしてしまう気がして、そんな気持ちになりたくないのでスルー!!!
あぁそっか、先日の高幡不動で本来行かないはずの拝観で鳴龍を体験していたからスパッと判断できたのか!!! まさかこんなところまで繋がっていたとは...
いやーーー、ありがとうございました!!! なんかこう、もう沢山書きましたが、凄く心から鱗が剥がれた気持ちです、物凄く来て良かった(*´ω`*)感謝
降りて来て振り返ると小学生の群れ( ˙▿˙ ) そしてやろうと思ったガチャガチャ前では先生方が雑談を続け全くどいてくれない、離れたところにも同じものはあったけれど何故かその台を回すべきだと感じたので すみません と声を掛けてどいていただきレッツガチャガチャ!
で、、、デタ━(゚∀゚)━!!!! まさかのイッパツで眠り猫!
もう一回やって想像の象が出て欲しかったトップ2が揃うという、だからこの台だけに惹かれてたんだなー(*´ω`*)
いやー、雨のお陰かほんっとに人が少なかったし外国人環境客の方々にもマナーの悪い方などおらず、拝観者の半数以上を占める小学生集団には当たったものの子供たちにイラッとすることなく参拝することが出来ました(あちらこちらで目に余ったのは先生たちの方でしたが...)
家康公、ほんっと、徳川家顕示のお宮だと思い込んでいて申し訳ない、そしてそんな先入観を持った人間(来たからには純粋な気持ちで巡れるよう心掛けましたが)なのにそれを綺麗に取り払い素晴らしい参拝をさせてくださった
本当に感謝です
さて、実は、ここに家康公の亡骸は眠っていない可能性があることをご存知ですか? あ、都市伝説ではありません、実際の資料に基づく話なんです(´ω`)
家康公の大河もあったことから既に結構有名な話になっているのかもしれませんが、家康公墓所は久能山にもあります
そりゃ最初に埋葬したんだから当然でもうここに改葬されてるだろ、とも思えますが実は東照社を創建するにあたり遷されたのは神霊であって久能山墓所からは掘り起こされていないというのです
家康公の遺言には、遺体を駿府久能山へ葬ること、葬儀は増上寺で行うこと、三河大樹寺に位牌を納めること、そして一周忌の後に日光山へ小さな堂を建て勧請すること、です
そう、移葬とは言わず勧請、つまり分霊を祀れというのです
よく神として祀れという遺言だと書かれており、確かにそれはその通りですが本当にわざわざ勧請という言葉が用いられていたとすれば、それこそ本体は久能山であるという意思の表れだと考えられるのです
そう、分霊であるからこそ 小堂 に祀らせようとしたのです
ここからは都市伝説に近くなります、小堂という指定を無視して家光公に壮大な宮を造営させたのは天海の入れ知恵だと言われています
つまりは家康亡き後も徳川家の威光を天下へ示し続けるには初代将軍の分霊をみすぼらしい小社に祀るわけにはいかぬ、最も偉大な場所にしなければならないといった感じでしょう、そう言われては祖父の遺言を破ることになっても将軍家の為だと従うでしょう、むしろその頃に僧正へ異を唱える事の出来る人物が果たしていただろうか
となると久能山の墓所から日光山へと亡骸が移されている可能性もゼロとは言えない
勧請の際は久能山から日光山へと神柩が運ばれましたがその中が"御遺骨"だったのか"御神体"だったのかはわからず、天皇陵と同じように神聖な場所として久能山でも日光山でも墓所の発掘調査は行われていないので真実はわかりません
遺言に従えば亡骸は久能山墓所のままで日光山には分霊が祀られていることになりますが遺言が守られていないことを考えると遺体も移されている可能性はあるかもしれません
ちなみに家康公が亡くなると亡骸は即座に久能山へと運ばれ西向きに立った状態で埋葬されたと伝えられていますからそれを掘り起こして神棺に寝かせて、、、というのはさすがにやらない気がしますが事前に御遺髪などが別に残されていればそれが納められている可能性も考えられます
とりあえずそこは置いておき、私が引っかかるのはやはり「勧請せよ」という遺言です、これはどういうことなのか、神になりたかったのであればしっかりとした神社に祀らせるべきである、それこそ現在のような東照宮など特に相応しいということになるはずが小堂を指定するとはどういうことなのか
そう...私が勝手に思い描く家康像はたぬき親父でこそあれ自分の権威を必要以上に知らしめ神にならんとするような人物ではない、それなのに金ピカギラギラな東照宮に祀れだなんてどうしてしまったんだろう、という残念な気持ちこそが東照宮なんて参拝しなくてもいいや、と思わせていたんですね
というわけでやはり勝手にではありますが妄想をしてみますw
墓とは別に魂を祀れというのはどういうことか、それはつまり荒御魂を祀らせる意味合いではなかったのだろうか
神霊は温和で平和的な和御魂と荒々しい荒御魂とに別れる、日本では古来より分けて祀る事で和御魂には感謝と平和への祈りを、荒御魂には除難厄除を願い、或いはその御力借りて戦に挑んだ
家康公は死後も江戸を中心としたこの国が、そして徳川家が疫病飢饉戦火から守られるよう自らの荒御魂を霊山である日光へ祀る遺言を遺したのではないだろうか
偉大なる神々(天皇)に並ぼうとしたわけではないからこそ、小さなお堂で十分だと考えたのではなかろうか
ちなみにオランダが奉納した徳川葵については当初間違って三葉で作られたという話もあり、もしかしたらわざと逆さ葵を伝えて作らせた可能性もあり、通常の葵と逆さ葵とでなにかしらの意味合いを含ませたという可能性まで論じられています
そういえば私の若き頃は徳川埋蔵金で盛り上がっていましたが一体どこに行ったんでしょうね
御宝塔の下に眠っていたりして...?!