どうも、ひのきですm(*_ _)m
東叶さんからの道中は次の記事にまとめまして、やって参りましたのはこちら、走水神社です
実はどういった神社なのかも全く知らぬまま、天気が良ければ海沿いグルっと散歩して北側の神社も参拝してしまおう、という感じだったのですが天気が良くなくても来てしまいましたね(´>∀<`)ゝ
ただ細かな雨がチラついたのは両岸叶さんだけでそれ以降は曇っていても降る気配無く、むしろここに来て再び青空と太陽が覗きはじめました
両叶さんでだけ雨(極僅かだけれど)だった、というのは 天 に通じていたということにしておきましょうかね(*´ω`*)
参拝する事に決めたとなればさすがに御祭神くらい調べなさいよということで鴨居八幡さんの境内だったか海辺だったかで調べてみると...ああああああああ!! それでうっすら頭に残ってたのか!!
そう、日本武尊と弟橘媛を祀る神社じゃないですか!! 実際雨には降られなかったし、やめてしまわなくて良かったー
鳥居も社殿も北側に向いていますので振り返れば海、これは日本武尊が対岸へ渡れるよう弟橘媛が入水した事に由来するのでしょう
走水の名は既に記紀の時代にはあった、それはそのはず、諸説ありますが日本武尊が弟橘媛によって鎮まった海を渡ると船が水を走るように進んだというのが有名な由来のひとつです
神社の御由緒はまだ読みません(´ω`)
なんとにこやかな狛犬さんが迎えてくれることか(*´ω`*)
そして...広い、さらに凄く心地よい
手水舎へ向かうと御砂倉が並んでいます、社務所で領布される袋で御神砂がいただけるんですね
網がされているのは...なんと湧水! 富士山から流れて来て湧き出るとされており昔は貴重な飲用水だったそうです、これが走水の名の由来だという説もあるそうですね
それでは手口を清め...ん? なんとこちらの手水は湧水で脇にはお水取り用の蛇口も備えられています、これならば参拝者に迷惑をかけずお水が頂けますね
それでは折角なので口に含ませていただきましょう...お?! ん?! おやや?! これはどうしたことか、真水と書かれているのですが私の口には僅かに塩っぽさを感じる、と言って海水のようなわけではないのですが不思議な味がする
もう一度口に含んで...うん、手も洗ったし口周りも洗ったし、というか涼しいくらいなのでガシガシ歩いて来ても汗をかいているわけではない、ならばなぜ塩っぱく感じるのだろうか、気のせいかな...
ちなみに近くにはヴェルニーの水という走水の水を濾過加塩素処理をして自由にお水が頂ける施設があるほどの水源地なんですね、海が目の前なのに凄い
脇を覗き込むと、、、カッパ!! なにそのぶりっ子ポーズ!!w 看板の説明が独特の書き方なのでつい 日本昔ばなし の声と話し方で脳内再生してしまいますね
こちらが井戸と採水設備でしょうか
それでは...ご挨拶!!
と思ったのですがどうも右手が気になる...なんだろうあれは、包丁...違う、舵だ!!
そして遠目にはわからなかったこちらは弟橘媛がイメージされたレリーフ!! 優しさもありでも少し悲しげにも見える天女のようなお姿ですね
あとなんか凄く気になると思ったらこちら御神木ですね
石段の左手には包丁塚がありました
よし、整った
それでは御挨拶...さすがに波の音は聞こえないけれど風が走る音が聞こえる、海を背に空を感じる、うーん! とっても清らかです!
右手に境内社などが見えます
こちらは稲荷神社、珍しい豊受姫命と宇迦之御魂神のふた柱を御祭神とされています、そして右手の玉、これはオブジェではなくなんとロシア軍の水雷、いわゆる機雷だそうです! 日露戦争後に各神社へ戦利品の砲弾などが多く奉納されたのは見てきましたが機雷は初めてです
そしてこちらは別宮、、、ですが 旧 と書かれており反対側に新しい社殿があるようです、そして
奥に水神社!! 右手の窟二箇所には石像や瓦?が祀られており
正面は河童さんが水神の化身として祀られています、可愛い!
本殿お背中の方へは安全管理上か柵で入れず、その旨が書かれているかと思いきや河童伝説が書かれておりました
いやーーー壮観!! あ!! そうか、真北ではなく北東を向いていてその先は富津なんですね
わー、ホトトギスが咲いてる(*´ω`*) 特に好きな花のひとつです
そしてこちらが別宮、弟橘媛の侍女も姫を追って入水されていたんですね、そして十王とは? 調べてみると死者を裁く十人の王と出てきますがこちらでは同行した武勇士と書かれていますのでここで殉じたのかその後も日本武尊に付き従われたのか
少し先にベンチがあり海が眺められる、そして御社殿が見えます
そして弟橘媛を偲ぶ歌碑、なんとこちらは東郷平八郎、乃木希典といった錚々たる人物により建てられたもの! 姫の身をもってして夫を守ったそのお気持ちが何より身に染みたであろう方々ですね
さらに先にも境内社があるようです
それほどキツくはない山を登っていくとすぐにこちら、旧稲荷社
どこか不思議な感覚になる...と思えばなんと日本武尊の一行も東征の成功を祈願したと伝わる稲荷社!? 社というか古来のまま磐座として残されているじゃないですか...
しゃがみ、心からご挨拶とこの恵まれた一日の感謝を
ここから少し登ると三社が祀られています、神明社、須賀神社、諏訪神社...諏訪様? てっきり上に祀られる神々はお稲荷様のように古来から祀られていたのかと思ったのですが天照大神と素戔嗚命はわかるのですがなぜ諏訪様なのだろうか
降りてきまして社務所を覗こうと思ったら隣が気になる、見に行くと橘の木なんですね!!
手前の木がそうなのかと思ったのですが後ろの木に実がなっているのでそちらかな?と後ろだけ撮りましたが手前も橘だったのかもしれない...前から思っていたのですが橘の実って食べたことないんですよね、一度試してみたいけれどまず見かけませんものね
もしかしたら美味しくないのか?と思って調べてみれば太古より日本に自生していた唯一の柑橘で皮ごと食べられるんだそうです(*´ω`*)
社務所を見ていたら御神木の銀杏から作られた置物?御守り?がありまして大小様々を見ていたら、ふたつがとっても気になり、特に惹かれた方をお迎えすることにしました
ご挨拶前に惹かれた御神木とあっては我が家に来ていただくほかないでしょう(*´ω`*)
いやー、素晴らしいですね、ほんっと早朝からここまでずーっと素晴らしい、来て良かったーーー、おっと、しかも青空が(*´ω`*)
それでは調べてみましょう!!
創建年代については社伝を焼失したそうで不明ですが、日本武尊が海を渡る際に村人が冠を賜り、それを石櫃に納め埋めて祀ったのがはじまりとされていますので最古で110年頃ということになるでしょうか
となればその地に祀ったとされるわけですが、では日本武尊はどこから船を出したのか、それは分かっていません
ただ推測だとその後の天皇や主要な海路として走水から浦賀水道を渡っていたそうで統治である可能性が高いと言われています
また、なぜ入水してしまったのかと不思議になってしまうような伝えとして「日本武尊が無事渡れるよう荒れた海を鎮める為に」とだけ書かれている事が多くみられますが、日本武尊達が出した船には弟橘媛達は乗っておらず(荒れていて危険だったから残していったのでしょう)、沖でさらに荒れる波に船が飲まれそうなのを見て波を鎮めるために入水したと言われています
また後日、旗山崎に弟橘媛の櫛が流れ着いたため村人によって橘神社が建てられ祀られていたのが軍用地として摂取されることになったため1909年に走水神社へと合祀されたそうです、それまでは別々に祀られていたんですね
ちなみに姫の袖が流れ着いた場所が袖ヶ浦、布が流れ着いた地が布流津となり、やがて富津へと変化したと言われています
東日本を平定した英雄と身をもってそれを支えた妃が東京湾を見守るお社、とても素晴らしかったです(*´ω`*)