どうも、ひのきですm(*_ _)m
上総巡拝、最後はこちら、南宮神社です
予定では本納からバスに乗って一社、海沿いにずーっと歩いてそこから二社を経て最後に玉前神社だったのですが、まだ時間も早いですしそのうち一社が近いということでやって来ました
玉前神社から水量豊富な一宮川を渡って少し行くと
開けたところにぽっかりと社叢があり鳥居が見えますね
鳥居が近くに見え始めても質素な感じだと思っていたのですが正面へ来ると意外に奥行のある境内、そして長閑な雰囲気が鳥居を潜ったところから徐々に変わっていきます
御祭神が玉依姫の姉であり夫の母でもある豊玉姫命であることと日本武尊が勧請したということは調べました、意図せずこの日の参拝が三社になりましたが全てが姫神であり、さらにこちらでの二社は姉妹神、そして日本武尊に関連しているという
橘樹神社も玉前神社も姫神様らしいといいますかとっても柔らかで居心地の良い境内だったのですがこちらはちょっと様子が違う、少しピリッとしているというか、厳正な雰囲気に包まれています、かといって圧があるわけではないのですが
鳥居を潜りゆっくり進んでいると左手に大きな石碑がありましたが文字は良く読み取れません
こちらが御社殿、周りは色付いた木々に囲まれながら社殿周りは空が抜けていてお手本のような御神域です
調べてみると日本武尊が大宮台に創建(元の社名は不明)、680年頃に穂積氏が金田郷下山へ遷すと共に美濃国一宮の南宮大社から金山彦命を勧請して社名を南宮神社に、1468年に現在地へ遷座されたそうで、さらに1911年に白山神社(1163年創建)も合祀されているそうです
なるほど、豊玉姫様と菊理媛様も祀られているとはいえ恐らく穂積氏による崇敬が篤く金山彦様の氣が強いから威厳を感じたのかもしれないな、と勝手に納得してしまいました
社殿の彫刻もとても素晴らしく、門柱の間に渡された枠と照明もあまり見かけない形ですね
こちらでは狛犬さんにも石碑にも注連縄がかけられています
さぁ、こういった広めの境内ではお背中へ回ることが出来るはず、と左手から奥へ
すると御神木の南宮大杉が
南宮大社は岐阜の垂井に鎮座されているという、そちらから移植された杉でしょう、とっても素敵な氣です(*´ω`*)
社殿右手側には朱のお社、その氣から恐らくお稲荷様かと御挨拶しつつ社殿内を見ると明暗差が強くてよくわからず、ただ何かが祀られているような感じはありました、うーんお稲荷様っぽくは無いようなあるような
そういえば少し感じていた厳の氣はいつのまにか消えていて物凄く居心地が良い、はていつからだろうと思い返せば御神木をお過ぎた辺りからだった気がします
御挨拶をする前とした後でどことなく、またはガラッと氣が変わることがよくあるのですがこれは何度経験してもとても面白い、ご挨拶したからという思い込みもあるかもしれませんけど稀に終始厳しい氣に包まれている神社さんもあったりするのでこれまた興味深いもです
こちらは石像? と思ったのですがどうも雰囲気が違う、上部の石板をよーく見ると...道祖神だ! ということは青面金剛様ですね(最近覚えた)
覆屋は内部にお社が並んでいますがこちらは扁額が掛けられていてとても助かりますね、三社神社は保食神、猿田彦命、大宮能売命、素戔嗚命の八坂神社、宇迦之御魂神の稲荷神社、そして天照大神を祀る神明社です
境内社は元から祀られているよりも地域の神社が遷座されている場合が多いのでひとつの境内に同じ神が複数祀られている事は珍しくはありませんが、なんとなく...右奥の朱社がお稲荷様なのかどうかが気になりましたが確かめる術は今のところありません
うん、素晴らしい境内ですね(*´ω`*) ←最初の緊張など何処吹く風状態な居心地の良さを感じているのにこの時は全く気づいていない
山に水? と思いつつ読めなかったので写真を撮っておいたのですがこうして見れば富士登山の碑ですね
そしてこちらも、もう快晴で明暗差が大きく文字を読み取る能力が落ちていまして(ただの加齢ともいう)、ただ石碑の紋のようなのが美しいと撮影したのですが白山神社の碑でした
いやー、質素だけれど物凄く素敵な神社さんでした
勝手な考察については後述にて(。-_-。)b
この後はお昼ご飯を食べて帰ろうと思ったのですが急にもう一度玉前神社へ行きたいと思い、ゆっくり境内を巡り、二度目のはだしの道でやっぱり激痛に苦しみw
さて、お昼ご飯だー!! と、思いっきり予定を変更していたのでお店も調べてない!!
とりあえず気になったお店へ向かうか...と歩いていると妙に気になったお店があった、御食事処酒処なごみ
くちこみを調べてみるとなかなか好評? で入店の決め手となったのは 一見もはやなんのお店かわからない飲み屋 という言葉w
おもしろいじゃない(*´ω`*)
で、入店してみると感じの良い男性(店主さんかな?)が丁寧ながら必要最低限という私好みの接客をしてくださる、看板メニューらしい刺身と焼き魚のなごみ定食を注文
時刻は13時になろうという昼下がりではあるけれど誰もお客さんが居ない(これも決め手だったw)店内はまさにクチコミ通り、いわばカラオケ居酒屋食堂という感じでとても面白い、テーブル上の調味料(特に拘ったものがあるわけではないけれどしっかり多めに一通り揃っている)を見て自分の選択が間違っていないはずだと謎の確信をする
料理を待っているとお客さんかと思った入ってきた女性が笑顔で、いらっしゃいませー、と言われて あぁなるほど! 勝手な想像が綺麗に仕立てられて妙に納得、うん、なんか良い、物凄く、良い
果たして、ママさんが運んできてくれた料理がこちら!!
なごみ定食1300円也
いや、正直、レビューの写真は見てしまったので分かってはいたけれど想像以上にしっかりしてる!!
お刺身は四品、鯵は大きめに切られていて程よい脂でめちゃ美味しいし臭みも無く新鮮、秋刀魚って刺身だとこの柔らかめな食感が地味にあんまり好きではないのだけれど味は大好きでじわーっと広がる脂と秋刀魚の香りがとっても美味しい、マグロは普通! でも普通って凄く大事!! そして大きなボタン海老?は脚がズルっと取れたので他と比べると若干熟成している感はありますが決して傷んでいるわけではなく濃厚さが味わえるベストな状態と言っても過言では無い
そしてあこう鯛の焼きはもう間違いが無い美味しさ、ちゃんとはじかみが乗って来るあたりがまた嬉しいですね(*´ω`*)
ご飯は調度良い感じだしお味噌汁も濃くなく料理にちょうど合う、若干臭みが残り気味だけどさっぱり目なもつ煮とナムル、1300円でとてもしっかりした内容はまるで旅館の夕食みたいです
いやー、満足満足(*´ω`*)
さて、最近のお決まりにプチ遠出をしたら買うことにしている本日のAcureは鳥取県産二十世紀梨
いやー、なんか行っちゃえーっていう勢いから急遽予定変更した一日でしたが終始素晴らしい天気に恵まれ、ゆっくりと三女神様にご挨拶出来た最高の一日でした(*´ω`*)
さて、やっぱりチーバくん巡拝は移動になかなか時間が掛かるものでして、でも昼過ぎに出たお陰で明るいうちに帰宅出来るのは大きい、余裕があったので東京駅構内を散策していたらなんと ぶりのすし の一人用棒バージョンが売っているではないか!
実はかなーり前に、しかも何故か長野は白馬駅で駅務室に ますのすし ぶりのすし あります と書かれた張り紙を見て ??? となり駅員さんに聞いてみたら ありますよ と、売店ではなく駅窓口でお弁当を売っていることにビックリ!!(その二種のみw)
初めて見たぶりのすしに惹かれ購入して以来マスはよく見かけるのにブリは滅多に売っておらず、稀に遭遇しても丸々ひとつは多くて購入を見送って来たのです、いやーいつから出ていたんだろう(*´ω`*)
入れ物こそ発泡Sかな?だけどちゃんとゴムで押してあるのが嬉しい、そして中もしっかり笹で包まれています
おーーーぷんっ!! きゃーご無沙汰ーーーっ!!
基本的に白くて写真だとわかりづらいw のでめくってみました、ブリとナマスの間には大根が敷かれているのです、これがまた美味しいんですよねぇ(*´ω`*)
マスにはマスの良さがあってブリにはブリの良さがあるわけですがどうしたってやっぱりマスの方が見た目も味もインパクトがあるのでどっちがいいかと言われるとその時の気分次第で迷いますが、どっちも好きです(*´ω`*)
では飯テロの連続でしたが後述ですが、答えの無い勝手な推測なのでウダウダな内容となりますw (。-_-。)b
もう少し調べてみましたらなんと元鎮座地とされる場所にも大宮南宮神社が鎮座されており、ここからちょっとだけ西と全然すぐ近くだったのです、ガーΣ(`・ω・Ⅲ)ーン なぜ 神社 検索で出なかったのだろう...
そちらによると大宮と呼ばれていた?元地として近年に再興されたようですが実際にその場所が創始地なのかどうかは定かではありません
さて、上でも書きましたが当社は日本武尊が豊玉姫を祀ったと言われていますがそれは何故でしょう?
勿論勝手な推論ですが、海を司る神である大綿津見の娘神を祀る事に弟橘媛への想いが込められていたのではないでしょうか、と考えるのは都合が良すぎるでしょうか、それも大綿津見命ではなく姫神を祀ったのは海中で弟橘媛を癒して貰いたいという一心だったのではないか、と
そしてすぐ近くに玉依姫が祀られているのは何故か、それは日本武尊が併せて祀った可能性もありますが姉神が祀られているということで後に妹神も勧請されたという可能性も考えられます、となればやはり残念なのが玉前神社の社伝焼失ですね...これだけ大きな神社ですから公式でなくとも伝えがあっても不思議はないのに
しかもこちらでは南宮大社から勧請され社号も南宮神社になっているにも関わらず御祭神名は豊玉姫が先ですし出処は不明ですが日本武尊が祀ったという話が残っている、記録を失ったとはいえ創始について口伝も何も残っていないというのは一宮として些か不自然な気がするのは私だけでしょうか、それとも細かな記録無しに明記するには信頼度が足らないような話なのか
まぁこれについてはどうやっても答えは出せませんが折角なのでそのまま玉依姫豊玉姫について考えてみたいと思います
豊玉姫で検索するといろいろ出てくるのですが、伝説としては九州南部が多いようで特に鹿児島には豊玉姫神社があります
ザックリとストーリーにすると、天孫ニニギが山神の娘サクヤヒメを娶り、ヒコホホデミが海神の娘を娶ったことで天地海の力が合わさっていったという感じでしょうか
さて、知識のある方は勿論、勘の良い方もお気づきでしょう
玉前神社の記事では火遠理命と豊玉姫の子が鵜葺草葺不合命と書きましたがこちらでは彦火火出見命と書きました、実は同一神とされていますがこの辺りが神話の難しいところ
実は彦火火出見尊はふた柱存在し、ウガヤフキアエズの父(山幸彦)も子(神武天皇)両方がヒコホホデミとされているのです、というかほんと名前いっぱいありすぎ問題、神代はこれが混乱させる原因なんですよねー
なので状況が似ていれば〇〇と□□は同じ神である、と同一視する傾向が強くて話に相違があったとしても似ているだけでゴリ押しされてしまうのです、とそれは置いておいて
伝説や状況的にはやはり大綿津見や豊玉姫は九州に居たと思われる、そして玉前神社由緒を併せると、龍宮、つまり九州から玉依姫が上総へとやって来てウガヤフキアエズを養育したということになりますがウガヤフキアエズの御陵などは九州、そして玉依姫を祀る神社や住居跡とも言われる場所も九州、となれば養育の時だけこの地に居たということになるのでしょうか?
周りを固めたので回りくどくなりましたが、さぁ、もうお分かりですね
記紀をベースに考えるとその時代の中心地は九州であって大和までも行けていないのに息子を関東で養育させるなどありえないし、まだ読み解いていない部分ですがホツマでさえウガヤフキアワセズに関東に纏わる記述は見られません
つまり玉依姫は九州からの勧請だと思われる、とすれば基本的には子孫などによるものが多いのですが様々な伝えを併せても特に玉依姫を主祭神として奉祭するような氏族が居たとも思えません
また、海神族の女神 豊玉姫が祀られているから妹神も勧請したと考えてもわざわざ勧請することがあるでしょうか、初代天皇の母神ということであれば神武天皇も祀るでしょうから可能性は低いように思われます
もうひとつの謎が、なぜ豊玉姫の南宮神社ではなく玉依姫の玉前神社の方が一宮になるほど篤く崇敬を受けたのだろうか
逆説としては玉前神社が先に祀られていて姉神が後から勧請されたのですが日本武尊が創建したというのが実は玉前神社の方だった可能性は? いやいや、それこそ勧請理由がますます分からなくなる、、、いや、寧ろそっちじゃないのだろうか?
あっ、、、しもた、、、これで当面は次の参拝予定無く年末を迎えられると思っていたのになぜかグダグダと深追いしたことで見付けてしまった...また中途半端に遠いって(´;ω;`)
はい、チーバくんの耳下、旭市の飯岡に玉﨑神社がありました、御祭神は玉依姫で日本武尊が配神に祀られる、上総に渡った日本武尊は下総に辿り着いた、その場所こそ玉之浦、玉ケ崎、こちらには社伝が残っており、日本武尊が 玉 に因んで弟橘媛への想いから海神である玉依姫を祀ったとされているのです
あぁ、、、なんの根拠も無く何かおかしい、絶対に根拠があると思いつつ答えが出るわけもなくこんなグダグダ書きなぐってどう結ぼう、いっそ消してしまおうかと思っていたのですが( ̄▽ ̄;)
上下はより大きな都市に向かって呼ばれます、千葉では上総が南で下総が北なのは忌部が開拓した安房が中心地だったからです
東征ルートについては諸説ありますが、現在の愛知静岡県境あたりから焼津までは陸沿いの海路で進んだとされている、そして走水から富津へ渡った日本武尊はすぐ東側、鹿野山の阿久留王を倒したとされているので内陸を進んだと言われている...が、そうではないとする説がある
浦賀水道を渡ると敵地が近かったため、房総半島沿いにぐるりと東へと回り込み上陸したのが玉之浦、東側から追い詰めて行き阿久留王を討ったという説がある、これには物凄く納得である
阿久留王が追い詰められていった伝承地は西へ向かっているし、何よりも皇族が太陽に向かい兵を挙げる事は負けを意味するので南からもしくは東から攻めなければなりませんが地図を見ると南部からは山々を超えなければならず東からであれば内陸まで山間部を進むことが出来る!!
ほんと、読んでくださった皆様には毎度毎度申し訳ない、ぐだぐだ悩む過程をそのまま書き残すことで読み苦しい事は百も承知なのですが、、、私にとってはこの過程が大事なのです
やはり、浦賀水道を渡り姫入水を嘆きつつも間近に迫る敵を前に半島を回り込む、ようやく着いた地でその名に因んで玉依姫を后への鎮魂の意を込めて祀る、そして陽の力を纏い阿久留王を討伐
勝手な妄想をすれば、阿久留王との戦を前に戦勝祈願で姉神を祀り、戻った時に戦勝の御礼としてこちらにも玉依姫を祀って北へと向かったのではないだろうか
恐らく当時はどちらも祠として祀られたでしょう、やがて社殿が建てられ崇敬を集めていく、やがて安房を中心として房総が開拓されていくとより近い玉﨑神社が玉前神社となったのではないでしょうか
また、大宮神社(豊玉姫)よりも玉前神社の方が大きくなったのは日本武尊により先に祀られたのが玉﨑であったこと、その創建には弟橘媛への鎮魂と共に絶対戦勝の祈願も含まれており玉前はその達成と御礼という縁起の良さがあったのではないかと勝手に想像しています
これが逆で、改めて戦勝を誓って敵地前にも玉依姫を祀り戦勝の御礼に姉神を勧請したとすると、、、? あ、それも全然有り得ましたね、后の献身に懸けて祀った玉依姫に強い崇敬が集まったのかもしれません、むしろこっちの方が戦を前に祀ったという意味での玉前なのかもしれません
なぜ前者の方が可能性が高いと感じたかと言えば、やっぱり焼失したとはいえ創始が一切書かれていないことが引っ掛かっていまして、敵を前に絶対戦勝を願い祀ったのであればそれほど強い説は無いから記録など無くとも記憶が強く残るはず
あくまでも玉﨑が元であってこちらは御礼として祀られた祠だったとすれば社伝が残らなかったとしても仕方がない、というか一宮とまでなっている大きな神社として本体が玉﨑でこちらは御礼に祀られた祠だったとするのはわざわざ残すにはちょっと、かと言って玉﨑と同じように書くにはちょっと違う
そんな感じで何も残さなかったとしたら物凄く納得ですし、都合の良い脚色もしていないというのが物凄く好感度高し!! ただ、これ全て私の勝手な想像ですけどね!!!www
あぁ...この流れ...行かずに居られますか?(自問)
かと言ってもう何度言っているか分からないけれど年末に向けて、そして神棚の御札のお迎えもあってチーバくんの耳元まで行ってる余裕があるのだろうか、、、でも年を越したらもう年末大巡拝の記事と事後調査でアップアップになっているかと思いますのでそのままになってしまいそうな気がしないでもない
いやー、なんでここで止めようと思っているのに止められなくてこんなに答えの出ないようなところでウダウダ書き続けてんだろう???と思っていたのにこんな終着点が用意されていたとは
さぁ、どうなりますかね(*´ω`*)