どうも、ひのきですm(*_ _)m
諏訪大社四宮巡り 上社 本宮です!!
なんかいいですねーこの雰囲気(*´ω`*)
こちらが神橋
左手に見えるのは蚕を祀る蠶玉神社だそうです
神橋を渡ると少しではありますが石段を降る下り参道となっています
すぐ左手に鎮座されるのが出早社
御祭神は御子神のひと柱 出早雄命で建御名方神の跡を継いで諏訪を治めたとされ、門番としてこちらに鎮まられているそうです
そしてこちら、二之御柱
そして凄い存在感を放っていたのがこちらの木
御神木ではなさそうですがなんだこのとんでもない存在感は!? その正体を知るのは最後になります
参拝路は記念撮影会になっていたので右手のこちらへ
随分立派な境内社だと思ったらなんと神馬舎の駒形屋!!
名前が良いですね(*´ω`*) 中には大きな御幣を背にした白馬黒馬が並んでおりまして雨乞いと雨止めの馬なのだそうです
そしてこちらが長い廊下 布橋 の入口、布橋門
とても雰囲気があって素晴らしい
吊り灯篭がこんな感じで軒下に並んでいます
途中、父神を祀る大国主社がありました
閉じられている門と巫女さん
布橋を渡るとL字に曲がり、いよいよです
どうやらこちらに北参道があるのですが出店が沢山並びかなりの人がこちらから来ているようでした
凍る手水舎w
この更に奥が斎庭、そして弊拝殿で我々は写真に見える屋根のところ、参拝所からのご挨拶になります
まぁなんと言っても本殿がありませんのでそれこそ堂々と、ゆっくり進みながら周りの山々、そして空に向けてご挨拶することが出来ました
未明に起きて始発から遥々巡って来た下諏訪と上諏訪、本当に来て良かった
参拝所の境内を出るとこうなっていました
一之御柱ですね、後ろに注連縄が掛かっているのはなんでしょう
ここで気付きました、弊拝殿は表参道に対しては背を向けこちら側の北参道に横を向いているのですがこれまで正面に見て右手前にあった一之御柱が本宮だけ左手前に位置するんですね
そんなことよりもこの注連縄の後ろには実は御沓石と天逆鉾が刺さっていたことに気付けよ、とこの時の私に言いたいのですがお呼ばれされなかったようです(´>∀<`)ゝ
写真には写っているのですが目が悪いので全く気づかずw
下調べをせずともお呼ばれ頂くとどんな影にあっても気付くのですがお呼ばれされないと視界の中にあっても気付かないのでそれがまた面白いと思っております(*^^*)
焚き火がとっても暖かいのですがそれ以上に神聖さを感じさせるのは諏訪大社の境内だからこそでしょうか
そして、こちらにもありました!! 温泉手水の明神湯!!
秋宮の時より寒かったので あっぢぃぃぃぃでもあっだげぇぇぇ と幸せになりました(*^^*)
こちらが北参道側の大鳥居ですね、この先の道は両側屋台が並んでとても賑わっていました
こちらは祈祷殿だそうですがとても素晴らしい気です
その隣は高島神社
御祭神は諏訪家当主、つまり諏訪大神の子孫で大祝を務められたという諏訪頼忠公、諏訪頼水公、諏訪忠恒公
ここから正面へ戻って行きます
こちらは清祓池
こちらは天流水舎
どれだけ晴れていても必ず屋根の穴から雫が三滴落ちるんだそうです
勿論雫は見えませんがやはり水の気あるところ、とっても居心地が良いです(*^^*)
こちらは神楽殿
横に回ると美しい龍太鼓が!!
こちらは巨大な一枚革で作られており元旦の朝だけ打たれるんだそうです、いやー、カッコイイ!!
神事が行われる五間廊、左手は勅使殿に繋がります
そしてやはり凄い気を放つ大木のところへ戻ってきました
柵は無いもののとてもじゃないけど近付く事が出来ないほどの巨木を遠目に眺めていると、立て札を見つけました
樹齢千年 贄掛けの欅
。。。。。あっ
そう、ちょうど元旦のこと
ニュースで蛙神事に反対する運動の事を知り、その存在を知ったのです
諏訪さんを参拝しようとしているのにそんなニュース見るの少し嫌だなぁと思いつつ調べてみると、以前は鹿の頭を奉納していて今では剥製を使っている事も知りました
そうか、昔はこの木から横に贄を供えていたんですね
巨木、御神木で近寄りがたいというのは初めての事だったので何事かと思っていたのですが、まさかこういった理由に繋がるとは思ってもいませんでした(最初も最後も一貫して嫌な感じは一切しませんでした)
何気に私の感覚も磨かれているのでしょうか。。。
この話はあとがきにて
あっ、危ない危ない、御柱を忘れるところでした!!
あると聞いていた御柱遥拝という立て札も無く、調べたのですがやっぱり分かりづらく、、、こちらで合っているのかわかりませんが、たぶんこちらが三之御柱
って記事を書いていて気付きましたよね
最初に撮っていた蠶玉社の鳥居からちょっと右側に写っている一本だけ色の違う木、、、三之御柱じゃん!?
他の方の写真を見る限り、そちらが合ってるとしたら木の模様からして同じだと思いますw
また、この上へ上がって行くとお寺の境内?から丸々しっかりとそのお姿を見ることが出来るようです
と、ここでパッと照明が点きました!!
四之御柱を探しに戻るので丁度良い(*^^*)
いやー、美しいですね
いろいろ調べてやっと見つけました
お正月用の授与所があって余計に分かりづらかったのですが、これ、授与所が無くても分かりづらいですね!
物凄い正月感溢れる写真になりました、こちらが四之御柱
これで四宮とも全ての御柱が見られました(*^^*)
これで諏訪大社参拝を終えたわけですが、全ての宮がとっても素晴らしかった!! でもやはり、前宮の異世界感が群を抜いていました
あとはとにかくロケーションが素晴らしすぎる、何度も繰り返しになりますがこれだけ素晴らしい山々、空気、空、水に包まれていて素晴らしくないわけが無い
年末からに引き続いて新年早々、最高の氣を頂きました!!
お陰様で未明から家を出て始発から各駅を乗り継いで下諏訪でも上諏訪でも歩き倒したのにびっくりするほどの疲れ知らずでした
勿論、帰りの車内は気を失う爆睡でしたが。。。w
っと、、、実はその前に。。。
つづく
あとがき
上にも書きましたが、年末は三日連続で早朝からハードな神社巡りを続け、流石に元旦二日は少し休めましたがこの日も未明からスタートして下諏訪上諏訪と長時間歩くとなると、、、と結構悩んでいたのです
名古屋から東京のルートはこちらだけでなく王道の東海道もありますのであそことか、あそことか、と思いつく神社はいくつかありました
そんな中での蛙神事反対運動のニュース
折角この後参拝しようとしている神社をピンポイントなネガティブニュース、、、これは行くなという事なのだろうか、と思い浮かびましたが、調べろということだとすぐに思い直したのです
物事は時代に合わせて変わるもの、という前提はありつつもだからといって無闇に古来の風習を捨ててしまうのもまた違う
どこに線引きをするのかとても重要だと思っておりますが、ここでは是非については掘り下げません
一説によると、上社は狩猟を司り、下社は農耕を司ると言われているようですが確かに、下社が農耕時期に合わせた春秋になっているのもそれが理由かもしれません
。。。あっ!!
そうです、多くの神社には境内社として稲荷神社が鎮座していますが基本的に境内社が氏族関係で占められている春宮、前宮、本宮には稲荷社がありません
但し、唯一、境内に稲荷社を祀るのが稲が実る時期に御神体が鎮座される秋宮だけというのは偶然でしょうか(´・ω・`)
古来祭祀として山の神海の神農耕の神に感謝を込めて獲物作物を供えるという神事は今でも各地で行われておりますが、問題になってしまったのは各地が少しづつ形を変えていく中で諏訪はものの見事に古来の祭祀形をそのまま残して来たからと言えるでしょう
欅の大木に近付けなかったのは事実ですが、ただし、怖いとか禍々しいとかそういった理由ではありません
気軽に近付いて良い場所ではない、という感じでした
それを私は、神贄を捧げるという神聖な場所だったから、と捉えています
また蛙神事についても是非については触れませんが、これがまた大事な繋がりのある事でした
蛇信仰です
諏訪では古来より熱心な蛇信仰が行われており、この蛙を供えるという神事も蛇神に対する贄であると言われています
前宮の御室社に繋がるミシャグジ信仰ですね
ミシャグジ信仰が根付いたこの地に建御名方神がやってきて大神神社のような祭祀を持ち込んだものの古来祭祀を蔑ろには出来ず融合させた
だからこそ、大祝のように現人神という存在が必要だったのではないでしょうか
今回の参拝旅は龗神に始まり立ち寄る所に龗神や水神が多く、龗神神社での導きによってさらに素晴らしい神域とも出会い、そして無知からではありますが三輪山からの諏訪という流れを辿ると共に龍蛇信仰へと繋がり纏まった、と感じております
とにかく、無意識に組んだ 鹿島香取三輪春日諏訪 という流れはもうほんと、怒涛のお勉強タイムを生み出しました
こんなにも頭を使ったのは生まれて初めてかもしれませんw
約1ヶ月掛けて笠間稲荷以降の下書きを書いてきましたが、さすがに学ぶ事が多過ぎてその間に参拝した神社は氏神様と偶然お呼ばれした笠間稲荷東京別社だけですからこれまでの神社巡りにおいて異例中の異例ですw
これから私の神社巡りはどう変わっていくのか、はたまた変わらないのか、自分自身の方針が皆無なのでそれもま楽しみのひとつです(*^^*)
あとがきのあとがき
なんとなーくもやもやしていたのですが、やはり意味がある場合にはこちらから探さずとも情報の方から寄って来ますね
諏訪大社の御神体は大祝でありそれは建御名方神の子孫とされる守矢氏と言われていますが、やはり後に三輪を手本として御神体とされた守谷山もまたその由来は物部守屋だそうです
仏教を推す蘇我氏と神道を守る物部氏の戦いは蘇我氏に軍配が上がり物部氏は秋田へと逃れたと言われていますが、その一部は諏訪に逃れたとも言われています
この話は武甕槌神に敗れた建御名方神の話とも通ずるものがありますので様々な解釈が出来るかと思います
そしてここでも、土着の神と物部守屋の戦いということになるのですがこの土着の神が 洩矢神 なのです
諏訪大神と守屋の戦い、洩矢と守屋の戦い、、、守谷氏、、、もりや が入り乱れていますね(>_<)
これこそが他説混同の原因のようです、いや、もう頭の中がごちゃごちゃになってきたのでw 繰り返しも含みつつおさらいしてみます
国譲りで敗れた建御名方神が諏訪に逃れ土着の神を信仰する豪族 洩矢神 と戦い勝利、共同統治として諏訪を治め、ミシャグジ信仰と神道が融合
後に神仏戦争において敗れた物部氏が諏訪の地へと逃れ土着の守矢氏と戦い勝利、、、共同統治となり、、、そう、これが混同の元
物部守屋を失い神仏戦争に敗れた物部氏の一部は守谷氏を頼って諏訪へ逃れたという説があります
まさか もりや という響きだけで頼り意気投合したのか?! いやいや、さすがにそれは無さそうですが実は物部氏と大祝には血縁があったのではないかと言われており、その血縁を頼って諏訪に逃れたとも言われます
守谷氏の庇護を受けた物部氏は山の上に物部守屋を祀り、その神社は今でもあり、そして山の名も守屋山になり、そして三輪山を参考に諏訪大社の御神体とされました
拝殿から見えないのに御神体とされたのは実は山自体ではなくその山に物部守屋が祀られているからだという見方も出来ますね
物部守谷というのは物部守屋と同音ですが守谷氏と結びついた物部氏ということになりますね
さらにです、物部氏の祖である饒速日が諏訪に来ていた可能性があるというのです
大神神社!?
ここから一気に繋がっていきます
大和を治めていたニギハヤヒは神武天皇にその座を譲り、その子 宇摩志麻治命は大物主の子 鴨王と共に大和王朝を支え、後に宇摩志麻治命は物部氏に、鴨王は三輪氏・大神氏となっていったと言われています
饒速日はどこへ? 墳墓とされる場所は奈良にありますが、実は国を譲って諏訪へ行った説、そもそも譲ったのではなく敗れて諏訪に隠居した説もあるようです
饒速日命が謎多き建御名方神の正体だと!? 確かにタケミナカタは記紀にちゃんと出てこないし諏訪大社が大神神社の祭祀と出雲大社の流れを汲んでいる事にも繋がります
まぁ 一説 ですけどね!!
新たな集団が諏訪入りしたわけですが親族を頼っての身寄せなので信仰形態に大きな変化を与えるものではなかったのでしょう
別説では下社は朝廷、政府の圧力により新設されたというものがあるようでそうであれば上社と下社のちょっと微妙な関係(というか伝承)や起源がぼかされている感じがするのも頷けます
とにかく謎多き諏訪大社ですが、そんな事も知らずに下諏訪上諏訪を巡った私としては現地で感じた様々な不思議がこれらの説を採用するとスッキリする気がするのです
信じるか信じないかは
あなた次第です!!(σ・▽・)σ