どうも、ひのきですm(*_ _)m
本日はこちら、子之神社です
穴澤天神社で満ちに満ちてそのまま帰ってしまおうかと思ったのですが次の子之神社までは行こう、そしてその後で考えよう、と思い神社前の三沢川に沿って東へ
穴澤天神社からのこのルートで行くと川の南側、山側を歩いていくことになり途中から分岐した細い川の同じく南側を進むことになりますがこの道は途中から急に細くなり背の高い雑草が顔より高く道を塞ぎ、どんどん細くなって完全にアパート裏の狭い道へと成り果て、気付いた時には橋と橋の中間くらいで行くも戻るも状態に陥り、最終的になんとか抜けたところが駐車場の敷地内となりますw
神社へは路地を入らなければならないのですがそのポイントは少し遠目から直ぐにわかります擬宝珠の橋
この先、右手が法泉寺、左手に福昌寺とお寺があり子之神社もその間に鎮座されています
てっきりお寺があるから橋もこのデザインなのかと思ったらなんと子之神橋、神社を由来として名付けられた橋でした
橋から道の先に鳥居が見えますね
階段側を進みます
そういえばこの辺りの神社は鳥居前に旗や幟を掲揚出来るポールが二本ある率が高いような気がします
では、いざ参拝
石段を登りきると、、、あ、あれ?社殿の屋根が見えていたのかと思ったのですが?
こちらに御由緒がありました
十一面観音を本地仏として大己貴命が祀られており、後に十二時の 子 が割り当てられる宮毘羅神が習合されたことから子之神社と呼ばれるようになったそうですが、、、義経?!
長くなるので後述にします( ˙ᵕ˙ )/
右手の石段上に社殿が見えます
思っていたよりも広い!! 大きい!! 清々しい!!
住宅地の中の素朴な神社だと思っていたので石段が長く高台に鎮座しているわ義経の名前まで出てくるわでこの御神域にびっくり
これは、、、来て良かった、というか来るべくして来たな、と
社殿が、、、社殿が物凄く立派!!
離れて見ても質素で素朴に見えて凄い重厚感、近づけばしっかりとした作りに彫刻も素晴らしい
所々に金具が使われていて恐らく修繕で新しくされていますが決して派手にならずのバランスが素晴らしい
拝殿前に立つと社殿に包まれるような感覚になって凄い迫力です
何か右から圧が、、、と思ったら大きなそろばん? の後ろに柱で見えていなかった老神木が!! 枯れてなお生きてらっしゃるような存在感です
こりゃ凄い神社だぞ、、、と厳かにご挨拶
、、、と何か上から視線を感じる、、、見上げたら
彫刻中央の御老体と目が合いました
と思ったのですが写真を撮ったら当然ながら下を見ているわけではありませんでした
左手には大きめの御堂と石碑、狛犬や石灯篭などが並びます
御堂はどなたが祀られて、、、と思ったら随分大きな納札堂ですね、奥には大きな砲弾が奉納されていました、裏には奉納された陸軍横須賀重砲兵聯隊上等兵の御名が彫られていました
いやー、ほんと、立派な社殿ですね!! 調べてみるとなんと本殿も拝殿も江戸期の造営が残っているそうです
こちらもまたなんと居心地の良いことか
お背中に回ると背後に謎の門、階段が無くても登れてしまいそうな高さで登っても周りを囲む土と木々だけのように見えますが
うん、やっぱり、カッコ良い!! そして老神木の存在感よ
横長の神楽殿脇からは街を見渡すことが出来ました
なんだろう、重厚感とか緊張感とか厳格な御神威とかではなく、それこそこの晴れ渡ったどこまでも青い空のように広い広い懐の広さと慈しみを感じる凄さ
これはただ天気が良くて自分との相性も良くて誰も居ないからという居心地の良さではない
穴澤天神社で満ちに満ちた気分が更に満たされ、この時点で9割を超えるレベルにこのまま残りの予定をやめて帰ろうと思ってました、それくらいの素晴らしさがこの神社にはありました
何がある、という訳ではないんですけどね
というわけで、いつもならこうして記事を各段階においてもなお流し読みで「へぇぇ~」で終えてしまっていたであろう長い御由緒をちゃんと読み解きたくなったのです
さて、歴史がほぼ全く頭に入っていない無学な私にはこの御由緒がなかなか難読でして、調べながら整理してみたら なんで? なんで? とさらに謎が増えてさらにいろいろ調べてみちゃいました、、、なるほど!!
保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇の戦いで源義朝と平清盛は後白河天皇側に立ち、清盛すら恐れをなすほどの弓の名手で崇徳上皇側に付いていた弟 為朝が放ち義朝の兜をエグった鏃
義朝の側室である常盤御前がその鏃を何故か大切に持ち続けていたのは主人を生かしてくれたという御守りの為か、はたまた兄弟の仲を願ってのことか
それを母から譲り受けた義経も大切に持ち続けていたものの、苦境に立たされ鎌倉から奥州へと逃れる際にしばらく隠れ棲んだ仙谷の地でその鏃が奉納していきました
その鏃は後に仏前から下ろされ地主明神の御神体となり、矢の根、根の神社、子之神社と転じていったようです
あれ? 義経が鎌倉から奥州へ逃れるのにこの辺りに隠れたの?
調べてみるとこの話に出てくる仙谷と隠棲したという寿福寺は鎌倉だという説が出てきました、、、あれれ?場所が違う? でも隠れ棲むのに鎌倉という自分を追う者の目と鼻の先に潜むでしょうか、いや、義経らしく灯台下暗しを狙った奇策だろうか
しかし、この子之神社の南側が 菅仙谷 と呼ばれる地であり、そして同じ名前の寿福寺や薬師堂があり、勿論こちらにも義経の伝承が残るわけです
隠れ棲んだ寿福寺を鎌倉だとしている説の中でも頼朝挙兵の報を受け加勢のため奥州から鎌倉へ向かう途中にこの菅仙谷を通っていると書かれているので、逆に鎌倉から奥州へと逃れる際も既知であるこのルートを通っていたとしても不思議はありません
これまで各地を巡って来た中でもあちこちに伝承が残っていて一体どれが本当でどれが噂なのかもわからないほど人気のある義経ですから(*^^*)b
もしかしたらどっちにも隠れ棲んでたかもしれませんしね!
ちなみに保元の乱で敗れた為朝は大島へ島流し、共に戦い勝利した義朝と清盛ですが平治の乱では敵として戦うことになり義朝が敗北、味方の裏切りで命を落とす
捕らえられた常盤御前は清盛の妾となることで息子達の命を救い、義経は鞍馬山へ、、、そういう流れだったんですね
ほんと、歴史勉強は元より小説もドラマも映画も世間の人気に関わらず好きな部分しか手を付けてこなかったので神社巡りのお陰で無知の極みであることを痛感しつつもほんと勉強になります
さて、、、長くてすみませんw
子之神社別当だった法泉寺の縁起に当社が創建年代不詳と書かれているので法泉寺の創建1195年よりも前から地主神として大己貴命を祀る祠が鎮座していたということになります
現在の本殿は江戸末期、拝殿が1811年の造営なので震災や空襲を耐えていますが1333年の新田義貞による鎌倉攻めで社殿を焼失しているそうですし、特に明記もされていないので恐らく鏃も失われてしまっているかと思われます
が、大切なのは物ではなく心です
子之神社には素晴らしい思いが詰まっていてこの素晴らしい居心地の良さがあるのだと思いました(*^^*)
なんか、ふと、真っ暗になるかどうかわかりませんが夜にこの境内の真ん中に座り目を閉じていたいな、と感じました
きっと、怖い、だなんて感覚にはならないんだろうなぁって
なんか結構長い時間を過ごしたような気がして写真のプロパティで確認してみたらなんと!僅か15分しか居なかったのです!!
!?工エエェ(゚〇゚ ;)ェエエ工!?
少なくとも30分以上居たような感覚でした。。。w
さて!
石段を降りて振り返り、ありがとうございました!!
と深々と礼をした時に突然目に入ったこちらの建物
何か納められているのか!?と覗いて見たら普通に掃除道具とかそういう物が入っている用具庫でした。。。(lll __ __)バタッ
ちなみに右側の坂道は本殿右後ろへと続く車路です
そこそこ東へ歩いてきたので最寄り駅は京王よみうりランド駅から京王稲田堤駅へと変わりましたがどちらにしろ一旦西へ歩いていくことになります(JR稲田堤駅もあります)
帰る気満々だけど若干の迷いもある、まぁ歩きながら考えますかね~と歩いていたら、ヒラヒラと大きなシロオビアゲハが飛んできて私の周りをぐるりと一周して飛び去る、、、かと思ったらまた家の屋根の方から降りて来て再び私の周りを一周して飛び去った
行く時にもとても気になったのですが、しっかり実ってこれから頭を垂れていくであろう実りを見て決めました
やっぱり行こう、きっと神様達が待ってる(*´ω`*)