どうも、ひのきですm(*_ _)m
さぁ、年末年始巡拝も最後の一社を取りやめたのでこちらが最後になりました
物部神社です
名古屋でのここまでの神社はいつも通り何気なく選んで来ましたがこちらは前夜、つまり元旦の夜、翌日にちょっとだけ出掛けるかという事で適当にマップを開いたら見付けまして、もうその社名だけで即決しました
さぁ何かに繋がるでしょうか
大きな由緒板には短めに、式内社であること、垂仁天皇の御代(紀元前25年前後)に初めて社殿が造営されたこと、御祭神が物部氏の祖である宇摩志遅命であることが書かれています
いつも通り、それ以外は読みませんでした
では参拝
なんとも言えず不思議な感じのする境内は特に何と言う訳でもないのですが、とにかく、何か不思議な感じとしか言えない、逆を言えば、何か不思議な感覚はハッキリとあるけれど何がというとわからない、そんな感じです(阿呆みたいなことしか言ってないw)
正面かと思っていたら裏参道だったようで社殿後方から主殿
前へと周り込む形となりました
どうも、お導きくださり誠にありがとうございます、とご挨拶
特に何が起きたでもなく聞こえたでもない、でも何かちょっと空気が揺らめいたというか、もうほんと、なんなんですかね、語彙力崩壊な不思議さがありました
そう、この時はまだ物部神社が、宇摩志麻遅命がどう繋がるのかなど全く分かっておらず、ただ奈良京都の参拝後に軽く賀茂氏について調べた時にふと物部氏と関係があるんじゃないかと考えただけだったのです
とにかく無知で感じたい私がどれだけ上述のように不思議な感覚に包まれていたのかを示すのがこちらの写真です
何か、何かよく分からないけれど不思議な力のある場所に足を踏み入れた、その感覚は恐らく頭ではなく勘までも麻痺させたと思われます
情報をシャットアウトするとは言ってもさすがに内容は読まずともどんな張り紙か位は確認するのですが、この写真に年末年始のお知らせとコロナ感染対策しか書かれていません
でも今この記事を書く為に上に貼り付けた今の今まで、神社の由緒が書かれた紙を撮影したものだと思い込んでいました、いやいやこんなこと初めてで自分でビックリしています
社殿前はこんな感じ、こちらが正面参道ですね
社殿左手、南側の境内社がこちら
こちらは裏参道から多くの幟が見えていましたので御祭神はわかっていました、こちらは白龍様を祀る物部白竜社、なんとこちらにもそして立派な境内で祀られていました
こちらもまた語彙力破壊の不思議な空間になっていました
もうほんと、攻めて御神威が強いとか重力や気温が違っている気がするとか何かそういうのであってくれれば良いのですが何がなんだかわからないんです、でも何か違うんです
境内北側にはこちらの二社
右手が物部天神社、御祭神は菅原道真公
左手は複数社が並んでいました
四社並んでいましたが社名・御祭神名はわからず
こちら側もやはり不思議な感じなのですが主殿前や白竜社と比べるとちょっと柔らかい感じでした
主殿の右隣に鎮座されているこちらも御祭神はわからず
でもやっぱり不思議な感じがしている
なんだろうこの不思議さは、と境内真ん中で見渡してい時に不思議な形が気になった石、上部を見ると何かが固定されていたのでしょうか
手水舎はあまり見ない感じでとっても良いですね(*´ω`*)
この辺りまで来ると不思議な感覚が無くなる気がするのはお水の力なのか別の何かなのか
再び境内中央へ戻りゆっくり周りを見渡すけれどやっぱりどこから何がどうなっているのか分からない不思議さだけがある
なんじゃこりゃ???
というわけでこちらが正面参道でした
もう、不思議しか言ってない( ̄▽ ̄;)
では白竜社の参道にあった由緒石を見ると共に調べてみました
神武天皇が当地の凶魁を討伐して国の鎮めといた要石が当社の御神体であり石神と呼ばれていたという、、、なるほど、垂仁天皇の御代に社殿を造営される前が石神様だったということですね
要石は本殿の下に埋まっているという、、、うわ、不思議な感じがしてたのはもしかしてそういうこと?! でも白竜社の方でも不思議な感覚が、、、と調べているとどうも都市伝説チックではあるものの本来の本殿は白竜社の方だという噂もあるという
根のない所に噂は立たぬ(根なし石なだけに)
そういえば根なし石ってどういう意味なんだろう...
そして主殿右手のお社は大黒様らしいということが分かりました
まず、神武天皇がここまで来ていた?! というところを調べると白竜社が物部神社だった説、実は物部神社ではなかった説、さらに式内社物部神社は御器所八幡宮だった説、、、えっ、何それ?! などなど謎が多い
さらには本当は駅近くだったのでこの後参拝する予定だった高牟神社も実は尾張物部氏の武器庫跡に創建された神社が遷座したものだといい、一気に繋がりが出て最後の大混乱
もう確証の分からない情報が氾濫していていかに皆さんも混乱されているのかがわかりましたが、はいこれ採用! というほどの情報が無くて諦めました
さて、主題へと参りましょう
物部氏の 物 は大物主から来ていると言われており、武門でありながら祭祀を執り行う氏族だったと言われています、そして物部氏ゆかりの神社のひとつが石上神宮、、、布都御魂!!
そう、名古屋で巡拝した神社を調べていくうちに最後の物部神社へと繋がっていく道がどんどん見えていっていたのです(実際の情報が無かったので何もわかっていないのと同じですがw)
尾張にも物部氏が居た、洲崎神社には石神として布都御魂が祀られていた、物部氏の"武器庫"が名古屋にあった、即ち思いつきで考えていた布都御魂が一時でも尾張にあったんじゃないかというのも僅かに可能性があったりしませんか?←聞くな
本来であれば伊勢に戻すべき草薙剣が熱田神宮に祀られる事になった理由が御神威宿る宝剱を祀る事が出来る物部氏が居たからだと考える事が出来ます
そして思いついて調べてみると、、、
尾張氏と物部氏は同祖であるという説があります、そして尾張氏である国造 乎止与命の娘が宮簀媛だと言われているのですがその系譜には微妙な部分があるとも言われています
はい勝手に考察発動!! 物部氏と尾張氏は同祖であり、尾張の物部氏が尾張物部氏と呼ばれている、そして武と祭祀の力を持つ物部氏、、、実は物部氏の血を引く宮簀媛だからこそ宝剱 草薙剣を祀る力があったと考えてしまうことが出来たり出来なかったり?!←どっちや
都合良い考えでしかありませんが、そうであれば日本武尊が宮簀媛に預け祀らせた事にも、そのまま宮中も熱田で祀り続ける事が良いとした理由にも、そして布都御魂の流れにも重なる
さらにはこの物部神社の要石の存在です
当時としては御神体は土に埋めるのが基本だったとは聞いたことはありませんが、布都御魂は石上神宮の本殿裏から発掘されたとしている、この物部神社には神武天皇が石神を埋めたと伝わっている
まさか布都御魂が一時的にこの境内に埋められて後により相応しい地として石上神宮に埋められた可能性も、、、そう、ここは石神さまと呼ばれていたので元石上である可能性が無いとも言えないのではないでしょうか
まぁちょっと妄想し過ぎかもしれませんが関連性はありますよね
いずれにしても、草薙剣にまつわる話には近年においてもその霊力の強さ故に様々な災いをも齎しており、奪われればその者に災いがふりかかり熱田へ返ってくる、見てはならないその御姿を見た物には尽く禍が降りかかる
勿論都市伝説のようなものですが近年における御神職の話などは都市伝説として片付けられるものなのか事実なのかどうでしょう
つまり、古来宮中では天照大御神の霊威御魂が宿る三種の神器を御神体としておりその霊力の強さ故に宮中の外で祀るようにした崇神天皇が一番恐れてたのは草薙剣だったのかもしれない
となると伊勢で受け取ったものの東征において武力を発揮すると共に常に災いに襲われその霊力の制御が出来なかった為に東征ほどの賊ではないからと尾張へ置いていった、が結局手放した事で災いに遭ったという解釈も出来るようになります
宮中としてはそれほど神威を奮う剱を伊勢に戻すよりも熱田で鎮まるのであれば好都合である、それは龍脈とされる地と物部氏の力故であった
まぁ勝手な妄想ですがまだ繋がります
名古屋に何故龍神が多いのか、それもほとんどが揃えたかのように白龍であるのは物部氏、大神神社、そう、蛇とも繋がるのです、そしてさらに色々関連が出てきます
尾張物部氏の本拠地はもう少し北だったという説もありますが、大須に三輪神社がある、何故だかわかりませんが尾陽神社に久延毘古命が勧請されている、と三輪との繋がりを思わせる
尾張氏の祖は天火明命だとも言われており、物部氏の祖といわれている饒速日命とは同神であるとも言われており尾張氏と物部氏が同祖と言われる所以です
天火明命は制約で産まれた五男ですから洲崎神社や御器所八幡宮の御祭神になっていたことにも繋がります
そして尾張氏の祖として伝わる天香山命は天火明命または饒速日命の御子とされていますのでそのあたりでも話が繋がっていますが、さらに天香山命にも神武天皇に布都御魂を届けたという伝承があります、、、あれ?高倉下=天香山命?!
としたら、高倉下は尾張連でありますから布都御魂は一旦尾張へと持ち込まれていた可能性が高い...ぐぁっΣ(゚д゚;) ここも繋がった...
もう止まらなくなるので思いっきりザックリと締めますw
色々調べた事を勝手に総合すると、、、饒速日命・天火明命の一族は尾張で一大勢力を築き尾張氏となった、尾張氏の一部は大和でも領地を持っており(元同族ですから)その地は高尾張と呼ばれた笛吹の地、、、鴨都波神社のあたりです!!
饒速日は大和より東、東海北陸南東北まで勢力を誇っており、尾張に縁の深い天香山命は越後国一宮である弥彦神社の御祭神でもあります
なんとも越国→葛城→山城→尾張と、まるで分かっていて組んだのかというくらい繋がりが見えてきました(それほど太くはないですがw)
ふと思いつきました、裏切られた長髄彦の一族は丹波より船で逃れ青森に流れ着いて再興したと言われており伊達政宗はその子孫である説まであります
勿論、元主君ですからその勢力範囲は熟知していたでしょう、北陸を抜けてその勢力が及んでいない東北を目指した可能性が高いのですが、、、もし、説得により長髄彦を生かして逃がしたとしたら、それが兄や弟であるという説になっているかもしれません
他にも王朝系考察まで併せていくととんでもないことになりそうですし今回はこの辺りで締め!
まだまだ全然妄想の域内ではありますが、やはり秋の長岡から始まったこの一連の流れは葛城山城を経て尾張をも紐解く形となり、そこには繋がりがありました
いやー、あまりに凄い巡拝だったので年明け早々に着手した4日分の記事を書き終えたのは2月中旬に差し掛かった頃でしたw
といったところで最後の名古屋飯テロ、どん!!
サクッもちっとジューシーでニンニクの効きも弱からず強からず
普通っちゃ普通ですが結構美味しい方の普通です
え?名古屋関係ない?
続いてどん!! ニンニクではない普通のチャーハン
これね、地味に絶品です、味は濃いめだけどしつこくはなくシンプルに旨味があってパラパラで香ばしい仕上がり
え?名古屋関係ない? じゃぁこれで分かるでしょう、どん!!
はい、ただの青菜炒めですw
でもこれが絶品なんだわ、でらウマなんだわ、ご飯にもお酒にもデラ合うんだわ
そしてこれだぁ!! どん!! 酢豚!!
全部シンプルですが全部美味しいんですよねぇ(≧∇≦)
特にわたしのイチオシはこの酢豚、一般的な甘酢酢豚とは違って若干酢豚チックな油淋鶏と言ってもよいかも、そして結構辛いんですがw それがまたご飯やお酒が進む進む
そう、こちらは台湾ラーメンの味仙
名古屋であればあちこちで食べられる台湾ラーメンですがさすが元祖、味仙の台湾ラーメンはめちゃ旨だけど激辛ですw なのでちょっと新幹線乗る前には無理w
結構ネタ的に注文して想定外の辛さに苦戦している人を見かけますのでご注意を~( *・ω・)ノ
というわけで、帰りはN700Sこだまのグリーン車での~んびり帰りました(*´ω`*)