日々是"吉"日

ゆるゆるなスピリチュアルでパワースポットやパワーストーン、原石、お香などを楽しんでいる日々の日記です。

鴨氏と秦氏とサルタヒコ

 

 

どうも、ひのきですm(*_ _)m

 

今回は葛城三社、山城二社を巡った鴨族の総括回でございます
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総括と言いましてもあまりにも複雑過ぎてまとまりの無い記事になるかと思いますが( ̄▽ ̄;) それほどに、知れば知るほど、調べれば調べるほどに謎が増えて行きました

 

まず私は勝手に記紀考察と称し、最後の記録とされながらも神話のような書き方で複雑に描かれ、さらに編纂者による改竄なども否定出来ない記紀だけを頼りに自分なりの考察を行いました

 

そもそも神話における都市伝説が好きだったものでそういった人の考えた情報に頼ることなく(ある程度は影響してしまいますが)考えるには、今の世にある先代旧事本紀(僅かに参照しましたが)や竹内文書、宮下文書、出雲口伝などは除外してまず記紀だけに絞ろうと考えたのです

 

その結果、それまであまり感じていなかったスサノオの存在感に気づき、そして味耜高彦根というキーポイントに辿り着きました

 

その直後、偶然旅先に選んだ地、長岡に味耜高彦根が祀られている、そして違うかもしれませんが高照の扁額が掛けられた神社があった

 

もうどうにもこれは調べなければならない、と葛城鴨三社の事を知り、その流れで山城賀茂二社と併せ参拝しました、この間僅か二ヶ月というから自分でも驚きです

 

では、各社伝を組み合わせた勝手な解釈に入りますw

 

渡来人だとされる鴨族はまず葛城の地に降り立ちます、そこで祖として祀られたのが味耜高彦根と高照姫、同様に鴨族が祀った社では事代主と下照姫(高照姫と同神とされる)となっていることから味耜高彦根は事代主という職位にあったという勝手な考察が合っていた可能性が大きくなりました

 

つまりは、大己貴が大国主という統治王になったのと同じで、大物主など〇〇主というのが役職名である可能性は非常に高くなります

 

何が困るといって、所謂オオクニヌシには名前が多くあり過ぎる、それが呼ぶ人の立場によるもので同一人物の事を指しているのか、はたまた代替わりした子孫や後継者を指しているのかというところが大きな問題ではあるのですがこれは置いておきましょう

 

大物主といえば大神神社、その社伝では大国主の元へ我を祀れと大物主が現れ三輪山へ祀った事で国造りがうまくいったとあります

 

主が職位名で魂が所謂戒名のようなものであると考えると、大物主は決して魂ではなく生きていたということになります、つまりは地方統一に苦労していた大国主が大物主を派遣し、三輪山を拠点に大物主が大和を制圧したことで国造りが成ったということではないでしょうか(勿論、自分自信が大物主となって大和征伐に向かったという解釈も出来ますが)

 

となれば、大物主は誰なのかということですが神武天皇に嫁いだ媛蹈鞴五十鈴媛命は大物主の子である、また事代主の子であるとされている、つまり同一人物である可能性が高いとされています

 

それが私は、味耜高彦根だと解釈しています

 

そして味耜高彦根大国主の娘下照姫を娶った天稚彦だったのではないか、戻らぬ事を怪しまれ死んだ事にした為、死という穢れを受けた大物主は魂として祀られ、新たに事代主という役職に就き三輪に続いて葛城の地を制圧した

 

三輪氏と賀茂氏は同祖とされているのでこの解釈は問題無いと思うのですが、ただし大物主と事代主を繋ぐ祖が居ると考えると兄弟ないし親族ということになりますのでここは無理をせず、ただ記紀に大物主=事代主とされる記述が多いのは無視出来ないかと思います

 

葛城に降り立った味耜高彦根は現地の豪族と協力しつつ多紀理姫の血を引く正当祭祀の下照姫の力もあり鴨族として大きな力を付けていきます、迦毛之大御神が坐す地が鴨や加茂ではないことが元より葛城氏が治めていた地でかなりの豪族だった事が伺えます、、、あれ?

 

ここで年代的な謎が、、、調べると鴨族は葛城氏と共存していたという説を多く見かけたのですが、肝心な葛城氏の祖とされる葛城襲津彦は竹内宿禰の子とされており4世紀頃に存在したとされていますが八咫烏が神武東征に協力した時代には葛城姓はまだ存在していないはずなのです

 

つまり、鴨族が居た頃の現葛城の地には別の豪族が居たということになります、それは誰か、そう、神武東征で敗れた長髄彦ではないでしょうか

 

長髄彦を倒し(裏切りでもある)神武東征を助けた八咫烏山城国へと移住(全てではない)し治めた、長髄彦が居なくなり鴨族の一部が残った地にやがて東征の功績により椎根津彦が国造に任命され葛城氏となりその地が葛城となった

 

あれ?でもそうであれば確かに長髄彦は強大な豪族ですがニギハヤヒ(私は味耜高彦根だと思っていますが)に仕えていたのであればニギハヤヒ側の名前が地名でも不思議は無いはず?!

 

と調べてみるとなんと葛城山は古来、鴨山と呼ばれていたそうです!!

 

ではいつから葛城に?と調べてみると神武天皇がこの地で土蜘蛛を捕らえるのに葛で編んだ網を使ったことから葛城と呼ばれるようになったんだそうです、つまり鴨族が去り地名が葛城となって国造が葛城姓を名乗る事になったんですね(葛城の由緒、実は野口神社の案内板に書かれていましたね)

 

...はて?土蜘蛛?手足が長い、、、長髄彦?!  土蜘蛛を調べると天皇に恭順を示さなかった土豪の総称とあり長髄彦もそのひとりと書かれていますがそもそも初代天皇を神武とするのであればその呼称の由来が長髄彦であっても不思議は無い?!

 

ただ資料によってはヤマト王権に恭順しない~と天皇とは書かれていなかったりするので実際のところは不明です

 

ではなぜ京鴨社にはその御祖である味耜高彦根が祀られていないのか、勝手な解釈では恐らく鴨族=八咫烏ではあるけれど実際に神武東征を助けた一族が八咫烏として分家していったと考えても良いかもしれません

 

いずれにしても祭祀の知識を持っていた鴨族なので京賀茂氏にもその力は受け継がれており、天皇家とも密接で宮廷祭祀にも大きな影響力を持っていた事が賀茂大社の斎王制度に現れています

 

山城国へ移った鴨族は後に移ってきた秦氏と密接な関係にあったと思われます、それはつまり説のひとつではありますが賀茂氏玉依姫秦氏が祀る大山咋神の間に賀茂別雷が生まれているとされることです

 

ただし、大山咋神には大年神の子という説もありそうなってくると鴨族と親族であることにもなってくる、、、難しい!

 

大年神というのが尊称のひとつであり全てが同一人物ではないという可能性もありますが、実際に葛野の地を治めた秦氏氏神 松尾大社の社紋は鴨神社と同じ二葉葵であり松尾山の別名は別雷山というのですからかなりの関係性があることは間違いありません

 

ちょっとこじつけですが、松尾大社の前を流れる桂川と鴨社の前を流れる鴨川はやや歪みつつもY字を形成しおり、そしてその扇状地平安京があった、さらにやや下流ですが鴨川の東側には稲荷山もある、いかに力を持っていたかが伺えます

 

この頃には既に鴨族は多岐に渡っており、また姓からカモという文字が消えていったりもしているので追うのは諦めましたw

 

、、、といったところでふと浮かび上がった一説はたかが一説と見逃す事が出来ないものでした、それが伏見稲荷大社を創建したとされる秦伊呂具の存在です

 

秦伊呂具は稲荷社家系譜図におい賀茂建角身命24世賀茂県主久治良の末子だと書かれているそうなのです

 

めちゃめちゃザックリですが世代的に1世を30年として計算すると、24世の末子ということで25代をかけると、、、750年になります、、、なんと、伏見稲荷大社の創建年711年から逆算すれば八咫烏とされる賀茂建角身の代が神武天皇即位の時代に重なってくる!?

 

これがその通りであれば、賀茂氏から秦氏が派生していることになる、またはやはり姻戚関係などにより強く結びついていたことの証左となるわけです

 

 

こちらも社紋で気になっていたのが高鴨神社の社紋です
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天皇を表す菊花紋の下に川が流れているのです

 

調べてみると、南北朝時代南朝に属した楠木正成がその功により後醍醐天皇から菊花紋を下賜されたもののそのまま使うには畏れ多いとして縁のある川を併せた紋だそうです

 

あっ、だから参道に楠木正成像があったんですね!!
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高鴨神社の記事を書いている時には正成公が高鴨神社を崇敬していたからだと思っていたのですが由緒ある神社の社紋が正成公の家紋となるとかなりただごとではない

 

さらに調べてみると、楠木正成の素性は自称橘氏ということだけではっきりと分かってはいないそうで、物部氏である、つまり鴨族である、などとされているようです

 

最古の神社のひとつにも数えられる神代創始の高鴨神社が崇敬篤かったというだけで南北朝時代に活躍した武将の家紋を社紋にまではしないでしょう

 

公式でも特に触れられてはいないのが気になり調べてみたのですがどうも調べた説にも様々

 

葛城山へ狩りに登ると天皇だけに許された装束を着た者に出会い無礼に怒るも大神だと知り献上品を奉じたというのですが、別説では怒って一言主を土佐への流罪にしたと言われています

 

調べてみると実際に土佐には高鴨大明神が祀られているのですがそこにはアジスキタカヒコネが葛城から来て土佐を開拓したとされており、なんと愛媛には社名も同じ高鴨神社まであります

 

さぁこれはどういうことか、勝手に解釈

 

葛城の地を治めていた鴨族は神武東征に貢献し、その一族が山城へと移り住んだ、やがて雄略天皇の代(450年頃)に大和における鴨族の権力を嫌って土佐へ流罪に、葛城から鴨族が消え山城が残ります

 

やがて764年7月とありますので4ヶ月後に淡路へと流されることになる淳仁天皇の代に葛城へ復祀されているそうなので300年ほど葛城から追い出されていたことになります

 

その間に強大な力を付けた山城鴨族が歴史の主舞台へと立っていったと思われます

 

では総本社でありながら流祀(神社ですからね)になった高鴨神社は葛城に戻ることが出来たものの苦労したでしょう、というよりも天皇により島流しにされているので戻れるというのは天皇による力だと思われますが、戻ってすぐに流罪により天皇が交代している事を考えると、、、? 直後に称徳天皇として復帰即位した孝謙天皇八咫烏である熊野総本宮を日本一大霊験所としているのです

 

調べてみるとそもそもでした、鴨族は葛城だけでなく熊野にも勢力を持っていたんですね、つまり孝謙天皇に貢献(ギャグじゃないですよ)した熊野鴨族により、いや、年代的な事を考えると高鴨神社の復権を条件に孝謙天皇の復帰に手を貸したと考えることもできちゃいませんかね?!

 

しかもですよ、しかも、称徳天皇で調べると当時の衣装を再現した(のか?)というお祭りで天皇役が着る衣装には肩にド直球の八咫烏マークが入っているのです

 

これ以上詳しく調べていくとほんとに何の話かわからなくなるのでここまでにしますが(既になってる)、、、つまり、味耜高彦根を祖とする鴨族は数多くの氏族へと分家していった中で苦労した葛城と成功した山城という状態になってしまった

 

だから族の祖である味耜高彦根ではなく氏族の祖である賀茂建角身と玉依姫を祭神としている、ただし葛城や熊野も共に八咫烏を名乗っていることや高鴨神社が鴨族の総本宮であることに異を唱えてもいない

 

そして話がやっと戻ってきました、葛城鴨族が天皇家と密接な関係に戻るやいなやなんと京が山城国へと遷都してしまうのです

 

決して山城賀茂氏の策略であるとまでは思いませんが、いや、思いたくはありませんので恐らく、300年の間に葛城の鴨族は周辺へと散ってしまったのでしょう、高鴨神社が戻ったからと言って300年のブランクがそのまま埋まるとは思えません

 

やがて迎えた南北朝時代、そう、実際に鴨族の血族かどうかは別として南朝方に属した楠木正成が崇敬篤く参拝していた高鴨神社にも同じ神紋が使われているということは、葛城八咫烏南朝後醍醐天皇方に付いたということではないでしょうか

 

調べてみるとビンゴ! 後醍醐天皇八咫烏を崇敬していたと出てきました!

 

ただ、血筋が枝分かれしているとはいえ皇祖を同じとする天皇家が即位争いをしているわけですから、八咫烏もまたそれぞれで南朝にも北朝にも協力していたでしょう、だって天皇家に入り込んでいるのですから

 

葛城と山城であまり仲が良い雰囲気は感じませんが、だからといって敵対している風も無いわけですからそれも時代の流れとして捉えている、願わくば時相応にそれぞれの最前を尽くし何があっても鴨族は残り繁栄する事を第一としていたのではないと思います

 

まぁ、、、部分部分しか調べずに書いているのでもっとそれぞれを細かく調べたら お前何言うとんじゃ って感じかもしれませんがこれが私の落とし所ですw

 

こうなると結構繋がってきちゃいます、大御神の尊称で呼ばれる神は僅か三柱、神話においても初めて人の姿であり性別を持った神である伊邪那岐大御神、皇祖神とされる天照大御神、では迦毛之大御神とされる味耜高彦根は何故?というところですよね

 

つまり、北朝南朝なんじゃないですか...?

 

都市伝説寄り寄りの寄りですが、明治天皇が実は即位時に入れ替わっていた説があります、これは学友と写った頃と即位後の写真で人相が違うということ、また歴史的に北朝天皇が続いてきたにも関わらず正当な天皇家南朝であると明治天皇自身が発言したこと、南朝天皇明治天皇として担ぎ上げすり替えることで九州勢が入れ替えたという説ですね

 

逆説だと、写真写りの問題なだけで発言も南朝方に華を持たせたなどと言われています(それにも違和感が大きい)が、どちらにしても北朝南朝それぞれに皇祖神が居ると考えた場合です

 

本来であればスサノオだったのでしょうが厄神とされてしまったのでそれは難しい、続いて各地で強く祀られた大国主が一大候補になるはずですが王朝としては滅びてしまった、そこで味耜高彦根です

 

私の勝手に考察では味耜高彦根天孫族天稚彦であり大国主の子は子でも下照姫を娶った義理の息子だったのではないかと考えていますので結局のところ、天孫族です(まぁ血縁によって殆どが天孫族にも国津神にもなっていくわけですが)

 

兄妹とされていますが天孫族である天稚彦=味耜高彦根天孫族正当祭祀王の血を引く下照姫を娶った、つまり天孫族の血族です

 

大御神は始祖である伊邪那岐高天原天照大御神、そしてこの島に降り立った迦毛之大御神ということになり、ひと柱だけ影のような存在になっている理由は歴史の表舞台から消えてしまいつつも裏の存在八咫烏として存続しているから、というのはどうでしょう(*´ω`*)←聞くなw

 

山城鴨族は天皇家にも入り込んでいったのでその代表社である賀茂大社にも斎王制度が敷かれ伊勢と並ぶ、高鴨神社ではなかった理由は上述のように一度流祀にされるなど所謂ケチがついてしまっていたからであり、京鴨で大御神が祀られていないのもその理由であると考えればスムーズですね

 

記紀南北朝よりもかなり昔に書かれているわけですが編纂されたのは高鴨神社の流祀・復祀後なのでその辺の事情も入っていた事でしょう、そして山城鴨族の力が確立されていくのは後の平安時代になります

 

どちらかと言うと裏の存在でありながらも脈々と着々と力を付け続けた所謂出雲族、鴨族の凄さと言うべきでしょう

 

つまるところの、時々大きな喧嘩もしてしまうけれど結局の所ではしっかりと協力しながら国を守っていると考えたいですね

 

え? 天孫系なのになぜ出雲系を祀り続けているかって?

 

そこなんですよ!! 一説では出雲系を裏切って(見限って)ヤマトで王朝を開き、さらに神武天皇に寝返った味耜高彦根と考察する向きもあるようですが、だとしたら鴨族系神社でちゃんと出雲系も祀られているのはあまりに不自然です

 

出雲大社大国主を封印しているという解釈もありますが、だとしたら斎王を置く官幣大社で本宮の目の前に大国主を祀っているはずがないのです

 

え?あの十二支に分けて名前も分けて祀っているのが封じているんだ、という声が聞こえてきそうですね、まぁそれはそれで個人的には面白いからありです(≧∇≦)

 

じゃぁ高鴨神社で出雲大社の神札授与が始まった理由は?

 

...あ

 

北朝側として出雲系を封じる立場の山城と南朝側として出雲側に立つ葛城という見方が、、、出来て、、、しまう?! 厄神封じとしてスサノオを祀っていることを考えると平安の考え的にありえなくはないですね

 

 

いやー、長いですねー、でも強大な氏族の話であり最強の謎と言っても良いくらいの八咫烏であり葛城山城鴨五社の総括なんだから仕方がない!! これは記事を分けられん!! ってことで継続します(៸៸>∀<៸៸)

 

ここまで鴨族について考えてきましたが、下鴨社の参拝によりそれ以上の謎となってしまった事があります、おわかりでしょうか

 

そう、猿田彦大神の存在です
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一説によると紀元前658年2月に葛野主殿県主部が賀茂建角身命を奉斎していたという記録があるといい、天神玉命を祖として鴨氏と同じ氏族だと書かれています

 

そして驚きの、、、賀茂神宮賀茂氏系図によれば賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命を奉斎しておりそれが賀茂御祖神社創始の一社だと書いているのです

 

大混乱!!  天孫降臨で登場したサルタヒコがカモタケツノミの12代孫ですと?! それはつまり、神武東征だけでなく天孫降臨を先導したのも八咫烏ということになってくる、いやそれどころではない、先に天孫族高天原へ導き、その上でさらに大和への神武東征を助けたことになります

 

いやいやいやいや、むーりー!!  無理、、、むり? ほんとに?

 

もう根本的に覆すしかないのですが、スサノオオオクニヌシ、アジスキタカヒコネ、カモタケツノミ、(11代)、サルタヒコが天孫降臨を助け、その後タカヒコネかタケツノミの同じくらい代替わりした子孫が実際に神武東征を助けた八咫烏ということになってしまいます

 

勿論その可能性もあるのですが、さすがにもうこれを解き明かすのはやっぱり無理ですね...

 

ただ、諸説をごちゃ混ぜに考えると、鴨族は葛城に降り立つ前に九州を経由していたというのでそこで猿田彦が居た可能性があります

 

ただ伊勢の猿田彦神社によると、天孫族を高千穂へと導いた後は天鈿女命と共に伊勢に戻って全国の開拓に務めたとあるのです、、、戻って?!

 

うーん、うーん、とにかく神代を紐解いているとどうしてもこの地域的問題というやつにぶち当たりますね

 

個人的には鴨族考察まで至っても国譲りー天孫降臨ー神武東征に時代差はさほど無い説を採用していたのですがどうも猿田彦まで絡んでしまうと齟齬が多すぎる、でもつまり齟齬が多すぎるということはどこかでどこかが(意図的も含め)間違っているという事ですから、考察でひとつの説に絞ろうとすれば自ずと自説に都合の良い解釈をするしかないということですね

 

ちなみに稲荷大神にも佐田大神が猿田彦の事であるとされているのでもしそうだとすれば賀茂氏だけでなく秦氏にもサルタヒコとの繋がりが深いことになります

 

導く八咫烏、道開きの猿田彦、どちらも意味合いが似ているにも関わらず同族とはされていないところを考えると、どこかで協力体制とか姻戚関係があったのではないかとも思えますね

 

猿田彦の地とされる伊勢と八咫烏の熊野は目と鼻の先ですから

 

 

ということで、全然まとまってない気もしますが私の中では正誤は別としてなんとなくおおまかな勝手に解釈が成りました

 

といっても勿論これで終わりというわけではなくここからまた広がりがあるのか無いのか、また新たな方向へと導かれるのか、今の段階ではわかりませんが(*´ω`*)

 

これにて年末巡拝と鴨族考察は一旦終了!!(`・ω・´)ゝビシッ

 

続きまして大晦日から年始にかけての名古屋巡拝の記事をアプしたら再び、秋冬に巡った都内の記事へと戻ります(*´ω`*)

 

こんな長くて纏まりの無い記事を最後まで全部読んでくださった方いらっしゃるのかしら、、、感謝しかありませんm(*_ _)m & 事実とは異なるであろう勝手な解釈ばかりですみませんm(*_ _)m


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