日々是"吉"日

ゆるゆるなスピリチュアルでパワースポットやパワーストーン、原石、お香などを楽しんでいる日々の日記です。

記紀とホツマに大物主を較ぶ

 

 

どうも、ひのきですm(*_ _)m

 

勝手にホツマツタヱでございます

 

今回は大物主関連を中心に記紀を読んでみたいと思います

 

と思ったのですが古事記日本書紀も思っていたよりも大物主に繋がると思える記述が少なかったので次の記事に分けようと思っていたホツマツタヱとの比較までを書いてみました

 

本来ならホツマツタヱよりも記紀を先にするべきかとは思ったのですが恐らく広く知れ渡り私自身も基準にしてきた記紀よりも偽書とされているホツマを先に読んだ上で改めて確認する方が気付きが得られるのではないかと思った次第でございます

 


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まずより記述が多いと思われる日本書紀からですがこちらは 別の伝えでは と他説が記載されている上に解釈も少し難しいのでごちゃごちゃするかもしれません

 

一説では誓約で身の潔白を示すと帰って行ったとも書かれていますが別説は一部だけが書かれていたりするので基本的には元々根の国へ行くはずのスサノオ高天原に留まり悪事を働いたので追放されて根の国へ行った事になっています

 

スサノオ稲田姫の五代または六代孫が大己貴とされていますがいきなり少彦名との国造りとなります、ホツマツタヱを読んだ後だと随分と話が飛んでいるように感じます、古事記よりも飛んでいますよね(日本書紀天皇代を中心に書かれていますから)

 

少彦名が常世へ去り誰か共に治めてくれるものはないかと言うと光る海から浮かんで来た者が 我は御魂ぞ、ここまで出来たのは私の存在があったからである という、大己貴は自分の幸魂奇魂だとしてどこに住みたいか尋ねると三諸山と答えたので宮を建て大三輪神として住まわせた、その神の子は賀茂君、大三輪、媛蹈鞴五十鈴媛命である

 

おっとこれは驚きだ、実は古事記を主に読んでいて日本書紀は摘み読みだったのですが、、、ここ破綻してますね? 海から現れた神を自らの御魂として祀っておきながらその神の子が存在している、大三輪大神としか呼ばれていないがその子孫が賀茂大神や五十鈴姫に繋がるので大物主であることがわかります

 

海から現れた存在としておきながら自らの魂として祀らせることで直系なのかそうではないのかを曖昧にしているようにしか思えないのはホツマを読んでいなくとも謎大き部分ですよね

 

また別の説では事代主が大きな鰐となり媛蹈鞴五十鈴媛を産み神日本磐余彦火火出見天皇の后であると唐突に書かれている、さらにその後には少彦名が小人で高皇産霊の子だと書かれもはやどれとどれが繋がっているのかよく分からない

 

神代下の項に入ると既に大己貴が国を治めている体で葦原中国平定の話になる、武甕槌に迫られ大己貴の子事代主は逆らいませんと姿を消し大己貴は幽界へ隠れたと早々の幕引きで瓊瓊杵の天孫降臨が始まる

 

ここでは別説の方が充実しており、味耜高彦根の部分がやや多く、そして有名な天孫降臨の詳細が書かれているのですが別説二では自分の代わりに猿田彦を推挙していったことになっていたり、大物主と事代主が経津主に服従した事になっており、お物主は高皇産霊の娘を妻としたことが書かれている

 

ここまでの中では大三輪神と大物主が結び付けられる記述は無く、妻とした三穂津姫についても以降出てこないらしい、大物主は現れることなく神武東征についてしっかり綴られ、長髄彦と対峙したところで饒速日物部氏の先祖と書かれている、そして神日本磐余彦火火出見は事代主の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命を后とするのである

 

別説も併せここまで読んでくると、大己貴が御魂として三輪山へ祀ったのは国譲りで姿を消した事代主が天皇家の血族となり同じく大己貴の子大物主はなんの描写も無く降参するところから登場するやいなや高皇産霊の娘を与えられ姻戚を結んだまま登場していない

 

だが実際に大神神社には大国主・大己貴も同神として祀られるが大物主が主祭神とされていることから以降現代にまで続く混乱を産んでいると思われる

 

綏靖天皇は冒頭から神武天皇の第三子で母は媛蹈鞴五十鈴媛命、事代主の長女であるとさらりとしつつも強調されている、それはなぜかと言えば直後に暗殺未遂事件が発生したからかもしれないが内容的には偏り無く綴られているように思える

 

続く安寧天皇から世継ぎと遷宮程度の簡素な内容になりますがやはり冒頭で母が事代主の次女五十鈴依媛だとしっかり書かれている、、、あれ?ホツマツタヱとは異なりますがこれだと事代主の長女を神武天皇が、次女を息子が后にしていたことになりますね、血族を大切にする時代ですからそれ自体は不思議でもありませんが、であれば余計に事代主の血が重要視されていたことになります

 

さらに三代目懿徳天皇の項も母は渟名底仲媛で事代主の孫、鴨王の女(娘)と書かれている、 あまりに簡素な項の冒頭に必ず事代主の血族であることが書かれており、しかもここから事代主の息子が鴨王だとされていることがわかりますが登場するのはここまで

 

崇神天皇は単独巻として書かれています、母である伊香色謎は物部氏の先祖の娘だと書かれている、ちなみに奇しくも皇后に対し謎とはどういうことかと引っかかったところで思い出した、ホツマツタヱでは孝元天皇の后を開化天皇が后とすることを過去の事例を元に諫言されるも自分を産んだ母では無いと突っぱねた事が書かれていた...!!!(開化天皇の母にも謎の字が使われていた)

 

ちょっとホツマツタヱに戻って読んでみればこれを諫言したのはオオミケヌシであり聞き入れられなかった為に親子で蟄居したとある、これがオオタタネコの祖父だったのか!!

 

何度も読んでいるうちにタネコにアメノが付くと天児屋命の子孫でオオタが付くと大物主の子孫ということは覚えたけれどオオが付く名前は数多くオオミケヌシも大物主の子孫とは気づかなかった...ちょっと前の記事に追記だけしておこう

 

さて、疫病飢饉叛乱に困った崇神天皇天神地祇に祈り、天照大神・倭大國魂を殿内に祀ったがその神威を畏れ外へ遷したと書かれている、自分で祀って自分で外へ?! ちなみにこの大和大國魂神の正体は不明で古事記には登場しない

 

天皇の姑である倭迹迹日百襲姫命が神憑りし倭国に居る神大物主神のお告げを伝え大田田根子の祀らせることで国は治まると言われ探し出した大田田根子は大物主と活玉依姫の娘だと答えるが別説では奇日方天日方武茅淳祀の娘ともされる

 

この後斎主となった百襲姫が大物主の妻となり小蛇姿に驚き大物主が帰ってしまった時に坐り込み箸がホトに刺さり亡くなってしまったという(この亡くなり方は何か意味があるのでしょうか)

 

息子達が三諸山の夢を見るのも同じように書かれ、ホツマツタヱと重なる景行天皇の代までの中に大物主は出てくることが無かった

 

比べると随分とごっそり抜け落ちていてそれだけではなく前記事に書いた通り国造り・国譲りから天孫降臨までの大きな流れまでもが大きく筋の異なる話になっている

 

日本書紀だけを読んでもそれほど不思議には思わないが(そもそもが昔話なので)、ホツマツタヱを読んでみるとなかなかに無理があるというか、むしろホツマが丁寧であることが分かる

 

但し、しつこいようですがだからといってホツマが真実だという印には直結しない

 

 

さて、それでは古事記の方で大物主を探してみましょう

 

出雲に宮を建てたスサノオクシナダヒメとの間にヤシマジヌミを産み五代目(スサノオから六代目)がオオナムチ・アシハラシコヲ・ヤチホコ・ウツクシクニタマと呼ばれるオオクニヌシだと書かれています

 

こちらは日本書紀とは異なり有名な因幡の兎など一人で活躍した話が描かれ、さらにタキリビメとの子がアヂスキタカヒコネとタカヒメ(シタテルヒメ)でありカムヤタテヒメとの子にコトシロヌシなど子沢山であることが書かれるがアメノミナカヌシの娘も妃にしており天津神との繋がりが伺えます

 

スクナヒコナと大物主の登場は簡単ながらほぼ同じですが続いてオオトシとイノヒメの間に産まれたのがオオクニミタマであるのに始まり、オオトシ神の子のオオクニミタマから16柱居るとし、さらにその中のハヤマトがオオゲツヒメとの間に産んだ神々8柱が並び書かれている

 

オオクニヌシスサノオの六代孫でオオクニミタマはオオトシの子としておりごちゃごちゃしていて読み流しがちですが前段でスサノオとカムオオイチヒメとの間に生まれた子がオオトシとウカノミタマであるとしっかり書かれている、ただしここではオオトシとイノヒメの子がオクニミタマとしているのでやはり別人なのだろうか、それならばなぜここに繋げて列記したのかが全くの意味不明なのである

 

豊葦原水穂国が荒れているとして国譲りが始まりここも日本書紀と大差は無いが大物主の名は出ず、最後オオクニヌシは息子の事代主が天津神の先に立ち治めれば皆従うでしょうと推挙しているがその後の天孫降臨から神武東征にもその名は出てこないが后にしたのは大物主の娘であるヒメタタライスケヨリ媛だとしている

 

記紀で事代主と大物主が入れ替わっている事が同一説の根拠となっているがホツマのように事代主の後に大物主を務めていたことを考えるとどちらも間違いでは無いことになるが美しい姫であると紹介されたホツマと比べ決定的に異なるのは大物主が用便中の姫を下から突いたというとんでもない描かれ方をしているところだろうか

 

仮にも初代天皇の正后となる姫の出生を書き記すには余りにも無礼であってそれは天皇に対する侮辱にもなると思うのだが当時としては無礼にはならない何かしらの意味合いがあったのだろうか、その後綏靖天皇から開化天皇までの間には事代主の名すら出てこない

 

そして迎える大飢饉、大物主は崇神天皇の夢に直接現れる、意富多多泥古は大物主の五代子孫であると答えており神憑りや臣下の夢、そして倭大国魂は出てこないが玉依姫が大物主の子を不思議に身ごもった話と意富多多泥古が鴨君の祖先だと書かれている

 

さて、古事記はこれだけで日本書紀よりも細かい部分もあるが全体的にはかなり減っている、そりゃぁ全然掴めないわけだわ、というわけでもはや記紀からの大物主考察はほぼ不可能ということで全体像を考察してから改めて大物主について考えてみたいと思います

 

 

当然ですが2,000年前後という昔の話ですからある程度曖昧だったり取り違っていたり欠落しても不思議は無いけれどそれにしてはあまりにも違う

 

まず記紀に関しては完成年通り古事記が先に編纂され同時進行か遅れて作られたのが日本書紀だと思っていたのですがどうも読む限りでは日本書紀が先で古事記がそれを手本にしたようにも感じられる、まぁ日本書紀は漢語で書かれていたようなのでそもそもが違いますがそれはそれ

 

外国に向けて編纂説がありますがどうだろう、読んだ感じ諸外国へ日本を知らしめるのに複数の説を載せるだろうか、ちょっと恥になるような事を載せるだろうか、さらにそもそも論なのですがホツマツタヱなどでは神代文字が存在していたとしてそれで書かれている

 

日本教育では古来口伝のみで文字は無く大陸から漢字が伝来して始まり後から便宜的にカタカナとひらがなが作られたという事になっているのでそれによりカナを元に作った偽物だと即座に判断されているのではないか

 

あくまで昔多少語学を齧った人間としての個人的な感覚ですが、漢語から仮名を生み出し日本語を生み出すのって中々に難しいと思うのです

 

勿論様々な起源説もあるようですが最近では都市伝説的に扱われがちな日本語オリジナル説も結構具体性を持って来ました

 

つまり、神代文字(古語)は存在しており幹事が入ってくると置き換えられていったけれどさすがに読みづらいし丸ごと入れ替えちゃうのは違くね?ってなったけど既に浸透しちゃっていたので元の古語を混ぜていった

 

むしろ漢字が流行りだウェーイだけど読みづらいからみんな古語をルビのように使っていたのが表に出て来てそっちがメインになったんじゃね?とさえ思うわけですが、とりあえず日本語は置いておきましょう

 

つまり神代文字が嘘だからホツマは偽書というのは成り立たないと言いたいわけですw

 

で、大物主を中心とはしつつもやっぱり内容ですよね、やはりどう読み返しても元から感じていた通り内容に不思議が多い、神代から国譲りは良いとしてその後の天孫降臨とかなんかね

 

そこへ来てホツマツタヱはあんなに難解であるにも関わらず筋は凄く通っているんですよね

 

古事記では消えていますが日本書紀で三代に渡り事代主の子孫が后だと明記している、大己貴の国造りこそしっかりと書かれていますが追放して以降登場させていない国津神の子孫の名をなぜわざわざ書いたのか

 

九州から畿内北陸を中心に書かれているとはいえ実際は東海関東東北まで痕跡があるのにほぼ触れられず尚のことやっぱり富士山について完全スルーなのは不可思議

 

ただし富士山については諸説あるが紀元前1300年頃、前900年頃、500年頃、800年頃と頻繁に噴火しており当然ながら神代にも重なると思われます、もしかしたらこれも神々として表記されているかもしれませんがハッキリとは書かれておりません

 

ホツマツタヱに出てくる山がその他の描写や祭神により富士山が有力視されていますが噴火については書かれていない、ただしこれについてはご都合主義を活用する前900~500年の間の出来事が記されていると考えればその間に噴火は無いので当然とも言えます

 

では否定思考としてホツマツタヱの内容を創作するとしたら? これは恐ろしく大変だと思われます、江戸期もしくはその前に神代文字を創作することはさほど難しくなかったでしょう

 

でも完全な創作をここまで複雑に創り上げるのは相当に困難です、いや、ただ創作するだけならばそれほど苦は無いと思いますが既に地域的に神社や御祭神のある中でその齟齬を出来る限り排除してこまかな設定を入れていくのはかなりの想像力と校正力が必要となる一大大作です

 

でも各神社などに伝わる伝承において謎の部分やぼやかされている部分などは記紀ではなくホツマツタヱを参照した方が意味が通じる、これが創作偽書であればそこまでを把握して盛り込んだ上で全設定を書かなければならない

 

とてつもない作業です

 

やはり個人的にはスサノオ一族に任せていたが良く発展したところで直轄にせんと国譲りを迫り勝利したにも関わらずなぜかニニギは九州へ行き中央へ出てくるまで長い年数放置していたというのはどの立場から見ても全くもって納得が行かない

 

スサノオ一族に統治を任せたがオオナムチが独狙いかと思われるほど出すぎた真似をしたので直接管理として直系に各国を支配させる地方分権システムを導入、やがて各国のバランスが崩れて来たのでニニギと左右大臣が全国開発を行い下地が出来たところでイワレビコによる中央集権が始まったと考える方が理にかなっていると思うのです

 

神社巡りをしていると特にそうなのですが由緒や御祭神の説明があまりにも"世間の常識"と掛け離れている事が多い、勿論その神社側が意図的に書き換えている可能性もありますし、なんならチラッと概要を見ただけですがその他の口伝的なものたちも様々で必ずしも他と一致しているわけではありませんが、少なくとも記紀とは違う物が多い

 

以前にも書きましたが我々が教科書で歴史、つまり史実かのように学び覚えさせられた事が僅か数十年で違う内容が教えられているわけですから、今の時代、何が何でも記紀国史だという固定をせず調査し、その結果によって部分的でも良いので修正していくことが必要なのではないかと思います

 

残念ながら記紀の記述にはその意味がわからない部分が多く、古社でありながらも天津神国津神が不思議なバランスで祀られている事を考えると大物主が幹部となっていた可能性は大きいと思います

 

それであれば出雲が大国主を封印するように祀られている説についても子孫の忠誠を守る為にもしっかり祀るが立場を明確にする為と考えれば違和感も無い、心を入れ替えたとはいえ万が一叛乱を起こすといけないのでほぼ手付かずだったであろう遠い津軽へ左遷して中央で働く子孫達の為にも(人質でもある)しっかり治めるだろうという判断にも納得がいく

 

記紀の通り大己貴を出雲に祀り封じ込めてからかなり経っているのにその荒御魂だとしても突然大物主を畏れ祀るという流れにも無理がある、ただここには皇孫すら畏れた崇神天皇だからということで納得出来てしまう形にはなっている

 

ただその場合、息子達が自分の将来を決める夢に三諸山を見たり東国を治めに来て大神神社を勧請するほどだろうか、これがなんと先日の巡拝効果が出るところ、ホツマが伝えるように元はニニキネと共に関東に居た大物主を祀れば東国統治が上手くいく、つまりそれだけの功績と威光があるということを豊城入彦も知っていたのではないかとしか思えない

 

無駄に時間を費やしていたと思われる記紀よりも地方分権で各地は統治されており謎の天孫降臨も本当は各地を巡察していた話と考える方が腑に落ちる、それが無ければ国譲りの出雲(大和?)を無視して九州に集中していたところから急に大和へ出て中央集権を始めるなど無理な話なのだ

 

え? だからその後に征伐が行われただろうって? 勿論それはそうとも取れるけれど各国を直系の君が治めた時代から中央集権へと移った事で集権力の届かない国や地域、部族が出るのは当然

 

野盗や叛乱の規模が各国個別の対処が難しいレベルになると征伐や仕置であって元から統治が行き届いて居なかったのであればもっと大規模な軍を動かさなえればなりません、そういう意味ではその後の歴史においても東北征伐は多いですね

 

そして私、ずっと思っていたんです、天孫降臨で凄く有名ですけど瓊瓊杵って折角国を取り上げたのに何故か盛大に高千穂へ降り立って木花咲耶姫を妻にして磐長姫を袖にして人間の寿命を縮めた神武天皇の曽祖父に当たる神であるのになぜそれほどあちこちに祀られているのか、と

 

開拓開墾の神とされていますが恐らく大陸朝鮮対馬方面から九州のどこかへ降り立った、または実は出雲から高千穂へと降り立ったとしてもその道中を開拓していっただけでそれほどに祀られるだろうか、なぜ糸魚川という地で大己貴の后で建御名方の母である沼河比売と並び祀られているのか、ある意味仇じゃないか、と

 

これもホツマツタヱが納得をくれたのです、瓊瓊杵は関東、富士、伊勢などを中心に各地の治水開墾を推し進めており北陸もしっかり巡っています、それぞれの地で瓊瓊杵に対して感謝があって当然なのです

 

では、大物主はどうなのか(やっと来たw)

 

ホツマツタヱ記紀の違いを較べればそこに答えがあるような気がします、やっぱり徹底的に消されたとしか思えません

 

大物主の痕跡を消すには瓊瓊杵の功績も併せて消すしかなない、但しそれこそ中央集権生の礎を整えた天津神の偉大な功績と各地を巡りながら出会った神々の全てを消すわけにはいかない、そうして創作されたのが天孫降臨ではないか

 

追放した大国主を初代開墾の神として称え国津神達を納得させつつ大物主はその荒御魂であるとすれば綺麗に覆い隠す事が出来る、、、そんな事出来る?! いや、国の政治を牛耳っていればそんな事簡単に出来るでしょう!!

 

全ての資料を焼き尽くし新たな資料を出し、僅かに残った大物主の子孫は最低限の立場を奪わぬことを条件に黙らせる、、、復権して表に出そうとしたホツマツタヱはまだ時期尚早でやはり消されてしまい、僅か細々と写されたものだけが残った

 

各地で大物主を崇敬していた人々も直接お会いしたわけではなく代替わりも進んでいるわけですから、大物主は大国主と同じ神だよーと言われればそうなんですね!!って納得しますもの

 

はい、出た!!  勝手に考察!!!  記紀の辻褄が合わないのは大物主の功績を消し去る為だった説!!

 

改めて調べてみると、ある時を境に全国的に大国主と少彦名を祀るようになっていたりしてなぜ罰せられた神がそこまでしっかり祀られたのか不思議だったのもこの勝手な妄想によって綺麗に解決します(妄想です、妄想、しかも勝手な)

 

でも勝手とは言ってもホツマツタヱを読む限りはそういうことですよね、ほんと、大物主だけがスパーンと消えていてそれ以外は設定が変わってはいるけれどちゃんと書かれている、天孫族の直接統治よりも国津神の影響が残る東北から北陸東海辺りまでがゴッソリまたはかなりぼかされているのも繋がる

 

まぁ斯く私も記紀を元に勝手にストーリーを考えたりしていますしその内容は当然ながらホツマツタヱとも全く違うファンタジーなわけですがw

 

それだからこそわかる、ここまでガッチリした偽物語を作るとしたらほんとに凄い、私は信じたいですね(*´ω`*)

 

というわけで大物主というよりもホツマツタヱ記紀の考察みたいになってしまいましたが何気に大物主を中心としたことでより明確な比較が出来たような気がします

 

これは今後の巡拝に大きく影響が出そうで少し悩ましいですね

 

思いっきりホツマに傾いてしまったが為に社殿や御祭神についてもそちら寄りで考えるようになりそうでそうなると恐らくほとんどの方が記紀をベースにした"常識"との違いに違和感を感じるでしょう

 

真実に近そうな気がするのにそれが真実である確証が無い、真実とされている方にもそれが真実であるようには思えない

 

まっ、その神社で何をどう感じるか、どこがどう結びついて呼ばれるか、そこはブレないでしょうから(*´ω`*)

 

と、そうこうしているうちに突然(ほんとついさっき)次の巡拝予定を決めてしまったのですがさぁ未だ下書きで埋もれさせたままの下書きが先になるかどうなるか(*´ω`*)