日々是"吉"日

ゆるゆるなスピリチュアルでパワースポットやパワーストーン、原石、お香などを楽しんでいる日々の日記です。

慈愛に満ちた癒し地 是政八幡神社

 

 

 

どうも、ひのきですm(*_ _)m

 

さて、競馬場をグルっと回り込んで南へ

 

ちょっと寄り道をしたのですがそれは後ほど(*´ω`*)

 

というわけでやって来ましたのは是政八幡神社!!
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あー、なんかいいですね(*´ω`*) The住宅地にある氏神様といった雰囲気で境内全体から優しいオーラが滲み出ています(*´ω`*)

 

ちなみにたま屋食堂からは目と鼻の先に鎮座されているのでお店を出てから1~2分で本殿のお背中が見えます

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9月の初め、気温は35度で雲ひとつない大快晴(*≧▽≦)

 

府中駅からぐるりと歩いてきて暑さにやられかけたところで昼食にあっつあつのもつ煮定食と旨辛鶏そぼろでさらに滝のような汗を出したところ

 

昼食で回復するはずが逆に止まらなくなった汗、ぐぃぐぃと減るライフメーター、、、が、この境内に足を踏み入れるとスーッと和らぎ、回復が始まりました(*´ω`*)

それはまごうことなくこちらの御神木のお陰でしょう、大きな洞の中に小さなお社が祀られています

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広がった枝葉が日陰を作ってくれているだけでなく、とっても静かで落ち着いた優しい氣を放ってくれています

 

あぁ、、、癒される、、、暫し全身全霊を鎮めてその氣をいただく

 

そして質素ながら彫刻なども綺麗で雄大な御社殿
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御祭神は誉田別命でございます、私の産土神様でもありどちらの八幡様でご挨拶してもやっぱり安心出来ます、威厳はあれどとっても温かい(*^^*)

 

創建は1590年、秀吉が全国を統一したとされている年ですね

 

髙橋兵部丞吉次により石清水八幡宮から勧請され1780年頃の多摩川洪水で甚大な被害を受けこちらへ遷座したそうです
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はて、高橋兵部丞吉次とは?  長くなったので後述にします(*^^*)

 

左手に境内社があります
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有難いことにしっかりとした扁額が掛けられていました
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四社が祀られており日枝神社大山咋神、水神社は水波能賣命でしょうか、宇迦之御魂神の稲荷神社、そして松尾神社大山咋神ですね

 

さて、本殿のお背中も拝ませて貰ってからは再びこちらの御神木へ、参拝だけ済ませて立ち去るには勿体無さすぎるほどの素晴らしい氣です
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近くに居るだけでドンドン回復していくのが分かる

 

見てください、このエネルギー!!

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洞が出来て薄くなった部分から新たな枝が伸びてしっかりとした葉を広げています
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こちらの瘤は特徴的ですね

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なんと上部に丸く穴の空いた瘤! 中に何か棲んでるでしょ!!
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境内外に向けて是政の由来が書かれた石碑がありました、人名だったんですねぇ
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いやー、久しぶりに凄いウェルカムな氏神様にご挨拶出来ました♪

 

その土地の為にいらっしゃるのに来訪者にも同じように優しく包み込んでくださる、こんな素晴らしい八幡様の周りに住まわれていらっしゃる方々が羨ましいです(*´ω`*)

 

 

さて、それでは由緒に残る当社を勧請した髙橋兵部丞吉次とは

 

調べてみると当神社の紹介記事しか出てきませんw と思ったら見つけてしまいました。。。がちょっと相違資料でして^^ ;

 

武蔵風土記稿によると、父である政信は弟と共に八王子城に籠城して戦死、この時遺された子 兵部丞吉次 はこの時2歳、と書かれているのです

 

そう、なぜ調べたかと言うと、北条攻めが行われ武蔵国内が大変な事になっている時に京都から八幡様を勧請?と思ったからです

 

あ、いえ、決して、この結果をして由緒が間違っていると言いたいわけではありません

 

この時、僅か2歳の吉次が京都から八幡宮を勧請した理由とは

 

ちょっと天正18年 1590年の歴史を調べてみると、、、

 

2月7日 家康の先発隊が出陣

3月1日 秀吉が北条攻めを決定し出陣

3月29日 豊富水軍と北条水軍が戦闘

4月1日  長宗我部軍が伊豆下田場を攻撃

4月10日  前田上杉軍が松井田城を攻略

4月12日  豊臣軍が松山城を攻略

4月27日  豊臣軍が江戸城を攻略

5月1日  武蔵河越城主大道寺政繁が降伏開城

5月22日  豊臣軍が岩槻城を攻略

5月29日  石田軍が館林城を攻略

6月14日  前田軍が鉢形城を攻略

6月24日  豊臣軍が伊豆韮山城を攻略

6月25日  豊臣軍が武蔵八王子城を攻略

6月27日  豊臣軍が武蔵忍城を攻略

7月5日  小田原開城

 

ザラっと戦関連だけを並べてみました

 

そうなんです、誰でもスマホですぐに情報が手に入る今と違って当時は人が馬を走らせ伝えに行く訳ですからどういう状況かを把握するにはかなりの時間が掛かりました

 

しかもその情報が正しいのか間違っているのかもよくわからないという時代ですが、この時の武蔵国においては前々から太閤と戦争になる、いつ攻めてくるか、どうなってしまうのかといった不安が渦巻いていた事でしょう

 

そして上の流れを見てみると3月初めに豊臣軍が出陣したという情報は殊の外早く北条方に伝わったでしょう、しかもその前からいつ攻めてくるかという切迫した状況にあったはず

 

3月末からは既に戦闘が始まり、当然のように北条方は次々と負けていきます

 

となれば答えが絞られてくる気がします

 

豊臣軍との敵対が一気に深まり戦争になる気配が色濃くなったために戦勝祈願として八幡宮を勧請した可能性

 

前年から建築などの準備が進められ、石清水八幡宮から勧請した御神体をお納めしたのが1590年の初めだったとすれば無くはないのですが、その場合は恐らく父政信の名で、もしくは氏政切腹に殉死したとされる政信の父の名で創建となるのではないでしょうか

 

それではなぜ、僅か2歳の子の名前での創建となったのか

 

なぜ戦乱が迫る中、戦乱の最中、または戦乱直後に創建されたのか

 

答えはひとぉーーーつ!!m9(`・ω・´)ビシッ!

 

僅か2歳で家督を継がされ祖父も父も、もしかしたら他の兄弟親族までも失った吉次がこれからの村を安寧に治めていけるように勧請された神社だったのではないでしょうか

 

八幡様といえば武神として崇められ頼朝など源氏が戦勝祈願として各地に祀ったのは有名ですが、なぜ敗戦後にわざわざ八幡様だったのだろうか

 

ここで ピン と来ました、先程調べていた武蔵風土記稿によれば吉次の家系は京極高氏、そしてその祖は宇多源氏である源成頼へと繋がるのです

 

家族を失いこれからの村を背負っていかなければならない僅か2歳の主を見守る父として!?

 

また八幡様はいち早く仏教を習合した神社でもあり、討ち取った相手の慰霊に生き物を放し供養する放生会も有名ですから敵味方含めて小田原攻めによる死者を慰めつつこのような事が二度と起こらぬよう不殺生の願いが込められていたのかもしれません

 

 

はい、完全に私の妄想ですm(*_ _)m

 

いやね、いつもならこの部分を深堀りなんてしないですし、例え気付いたとしても年代の間違いか人違いかだろうねー、で済ませてしまうのですが何故か今回は引っかかったのです

 

そもそも由緒の石板も、、、実はサッと見ただけで写真も撮らず、まぁ記事を書く時に調べることは出来るし有名じゃない創建者だし、と思っていたのです

 

参拝を全て終え、鳥居を出たところで石板に目が行き、なぜか撮っておかなければと思ったのです

 

そして記事を書いている時もまた、境内の素敵さをしっかり書ければ短い由緒は別に触れなくて良いかな、と思っていたのです

 

他人からすれば 何が? という事でしょうけれど本人である私としてはびっくりの流れでございました

 

平和を願い、村の安寧を願って創建され人々が笑顔で暮らせるよう見守ってきた八幡様、これこそ本来の氏神様、八幡様

 

ありふれた地域の神社にも関わらずなぜあれだけ凄い癒しの氣に満ち満ちていたのか、その答えが見つけられたような気がしました

 

勿論、、、ただの素人妄想論ですから 都市伝説!! ですw