日々是"吉"日

ゆるゆるなスピリチュアルでパワースポットやパワーストーン、原石、お香などを楽しんでいる日々の日記です。

雲龍神社跡地 松原緑地と勝手に考察

 

 

どうも、ひのきですm(*_ _)m

 

さて、この後は二社巡拝した上で母親と大須で合流の予定だったのですが想定外に白龍神社の混雑と洲崎神社の規模&居心地の良さだったので諦めて真っ直ぐ大須へと向かうことに

 

と言いっつ一箇所、洲崎神社から少し南へ行ったところ

 

松原緑地です
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って、えぇ?! いや、素晴らしい御神木なのですが柵に覆われていて中に入れないんですけどw って笑えないくらいに雰囲気が凄い

 

写真の通り快晴で風もあまり無く過ごしやすい長閑な住宅街なのですがある意味 異様 と言えるほどの圧がある

 

手前にはY字のこちらも大きな木が生えておりその脇には石道が敷かれている、その先には...巨木にしては手前の木の方が枝葉が多い?
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ズームにしてみると祭壇のような石組みと真っ二つに割れた、いや、中が空洞になった巨木の跡がありました、、、枯れてる?!
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案内によるとこちらは「くすのきさん」と呼ばれ親しまれてきた巨木で空襲によって中央が抉り焼けてしまったにも関わらず根元から枝を生やしこうして青々しく復活を遂げたのだそうです

 

焼けた巨木を取り囲むたくさんの葉は大楠のお陰で焼け逃れた或いは新たに植えられたものかと思ったのですがこの状態で根元から自力で復活しているんですか?!凄い...

 

こうして各地を巡拝していると時々雷や戦災によってこのように樹皮だけになってしまったのにしっかりと再生し生きながらえ御神木になっている木に出会いますがそれにしてもこの太さは凄い

 

そして案内を読む前にこの中心から何か重々しい氣を感じていたのは決して思い込みではないと思います、この感覚は紛れもなく過去幾度と感じてきたものと同じです

 

ここへ来た理由はマップに 雲龍神社跡地 とあったからですが柵の手前に居ながらして目が離せずしばし動けずに立ち続けたこの感覚、そしてこの少し盛り上がった丘

 

古墳じゃないですか?

 

神社跡とあった事を考えるとこの祭壇のような土台は雲龍神社お社が鎮座されていたのではないでしょうか

 

というわけで調べてみるとなかなかになかなかな内容でした

 

雲龍神社についてはあまり情報が無く、創建は鎌倉期と想定されているようですが恐らく古墳上に御神木と共に鎮座されている事を考えるとかなり古来から祠などが祀られていたのではないかと思われます

 

これまで参拝してきた白龍=白蛇ではなく雲龍となっていますが雲も白いと考えるのはちょっと無理やりかもしれませんw

 

複数の方がお調べになったようでその一説によると明治以降に祀られた神社だとされていますがやはり大須古墳群のひとつだとされているようです

 

はて、市が管理し松原緑地という名称にしており神社も既に無く(遷座はされていない模様?)にも関わらず人の立ち入りを柵で防ぎ古墳調査もせず放置されている理由とは?

 

どうもこちら、戦後にくすのきさんを伐採しようとしたらしいのですが住民からの大反対に遭ったようです

 

そりゃそうだ、ここまで焼け落ちてなお根元から新しく芽吹く樹齢千年といわれ真偽不明ながら弘法大師の手植えとか信長が戦勝祈願をしたとの伝説も残る大楠がどれだけ人々の心の支えになったことか

 

結局、神社は再興されず木の伐採をすることも出来ず、なのに松原緑地と名前をつけ中途半端な管理をされている

 

行政はなにやっとるだぎゃぁ!!たわけか!!!

 

市は樹を伐採した上で土地を売却しようとしていたそうですがさらに大うつけですね!!  みんなの想いが込められた御神木を切り倒して神社まで無くなってしまった古墳(と思われる)を一体誰が買い取って何か建てようとするでしょうか

 

マジで大うつけだわ...( ¯-¯ )

 

そんな扱いにするくらいならみんなでお金を出し合って土地を市から取り返して皆が集える本当の緑地にすれば良いのにと思うのは他人事だからでしょう、立地的にそこまでの地価ではないでしょうがそれでも結構な広さですから戦後復興の中においてそれだけのお金を出し合うのは困難だったでしょう

 

そうこうしているうちにこの状態になってしまったのでそのまま、という感じでしょうか

 

にしてもちゃんと予算を取って刈り込みなど整備はされているようですし、流れが流れなだけにゴミなどが放り投げられていても不思議ではない状態なのに空き缶ひとつ見当たらないのはおおくすさんがどれだけ愛されているか、それが若い人々まで受け継がれいるかを物語っている気がします

 

普通に目の前の公園管理と併せて毎日清掃されているだけなのかもしれませんけども

 

まぁ行政なんて、というか名古屋行政なんてそんなもんだと元市民なので思いもしますが、それにしてもこの状態だと放置になっても不思議ではないのに一応ちゃんと管理されている謎

 

これだけ時が過ぎたのならいい加減、ちょっとだけ予算を掛けて、なんなら倒木や御神木周りに安全柵を設ける程度ならば寄付を募っても集まるでしょうから鉄柵を取り去って人々が集える緑地にすれば良いのにそうしていない

 

そこには古代祭祀跡であり旧社地であり古墳上であることが何か関係しているのではないかと勘繰ってしまいます

 

そうこうしているから名古屋(尾張)は歴史が隠された地だという都市伝説考察が生まれるんですよ(なんか見た)

 

 

でも確かに、、、子供の頃は三大都市ツアーと言えば東京名古屋大阪だったのに徐々に名古屋が外れて福岡に、七大都市には名を連ねていたけれどそれも外れるケースがあって2002W杯ではその為に作った豊田スタジアムも使われずw

 

まぁ位置として中途半端だし名古屋を故郷とする我々にとっては名古屋は名古屋で西にも東にも属していないと考えているのですが関東からは関西だと言われ関西からは関西の向こうとされる非常に中途半端な存在

 

規模も歴史も観光地も東京京都大阪の足元にも及ばず、県外の方に自信を持ってオススメ出来るのは名古屋城熱田神宮名古屋港水族館くらいでしょうか...ってなるとやっぱり名古屋は関東関西の通過点なんですよね

 

まぁ仕方ないですね、こうして神社の歴史を調べて分かってきましたけど海がこの辺りまであった昔では沢山の川が流れ

氾濫も起こす土地なんて栄えていなくて当然なんで、、、す?

 

まて、松原古墳群や遺跡群があって古代祭祀があってって事は結構な歴史がある? しかも後世ですが信長の本拠であり秀吉や前田家、三河だけど家康と戦国時代の主流を生み出した土地

 

あ、そうなんです、加賀百万石の前田家は信長に命じられて治めた土地であって出身は尾張荒子なんです

 

っていうか、なぜ神代史においても特筆すべき事の無いこの地に当時でも現代でも重要な草薙剣が祀られたんだ?!

 

同等の霊剣 布都御魂 は宮中に祀られていたのが石上神宮へ遷されしかも2000年も社殿ではなく土中に埋められていた

 

皇祖神が宮中で祀られていたのに外へ出され伊勢の地に落ち着いたのは御神威の強さを恐れてのことだとされていますが、そう考えると毒家を吹き飛ばすほどの布都御魂の御神威が強過ぎてそれを鎮める為に埋めていた?

 

では草薙剣は? もう一度考えてみよう

 

あ、松原緑地から全くかけ離れた話になって行きますけど、まぁそれもこちらがキッカケということでw 諸説ありすぎて入り乱れますが整理してみます

 

スサノオが退治したヤマタノオロチの尾から産まれた剣を姉アマテラスに贈るのですが、一説には天岩戸開きで八咫鏡と共に奉じらたものでヤマタノオロチに奪われたのをスサノオが取り返したともされています

 

剣は天孫降臨でニニギへ授けられ宮中で祀られますが崇神天皇により外へ出され伊勢へと遷される、東征を命じられた日本武尊は神宮を参拝し倭姫命から草薙剣を拝領し東へ、尾張で宮簀媛に惚れて契を結び東征を成功させて戻ってきた日本武尊は大切な霊剣を宮簀媛に祀らせて都へ戻ろうとするも暴風雨で危篤となり草薙剣を偲ぶ辞世を詠み命を落とす

 

これ、やっぱり不自然ですよね

 

なぜ天孫族にとって重要な刀を神宮へ返そうとせず宮簀媛に与えたのか、しかも祀るようにと、、、

 

そもそも本体ではなく形代が与えられていたから返す必要が無かった(そもそも形代は御分霊なので本体と同等)、東征によりボロボロになってしまったから(それでも御神体)、などいろいろ考えられていますがいずれにしても神宮へ返すべきでしょう、しかも種々の苦難を乗り越えてきた武神ともあろうお方が草薙剣を手放した後に伊吹山の暴風雨で命を落とすのです

 

っと、、、これ即ち宝剱の霊力凄まじく神宮の外へ祀ることにしたということじゃないかと考察しようとしたのですが突然閃きました、洲崎神社を調べていて船玉社が普通に考えれば航海神なのに弟橘媛だと思い込んだ事が!!

 

というわけで改めて上っ面だけでなくちゃんと調べたのですが記紀だけでなく伝承や英雄譚も多く諸説入り乱れます

 

相模、千葉というキーワードに縛られていましたが弟橘媛日本武尊に同行して船に乗っており相模で暴風雨に襲われた、、、あれ?どっから乗った? っていうか尾張で宮簀媛と出会ってしばし過ごしてなかった?その後?

 

調べてみるとなんと、弟橘媛三重県の亀山出身だというではないですか、そこから船に乗っていたのか?!  となるとその後に弟橘媛同行のまま尾張で宮簀媛に恋をしてしばし過ごした事になるΣ(゚д゚;)  まぁ多妻が普通の時代っちゃ時代ですが( ̄▽ ̄;)

 

一説では日本武尊は宮簀媛への求婚は東征の後に決めたらしくだから東征後にまた戻ってきたんですね、妻が同行していたから気を使ったのかこれから戦へ向かうから帰りに妻にして連れ帰るつもりだったのか

 

駿河湾でも暴風雨に襲われた的な記述もみられますが有名なのは草薙ですね、駿河で賊に襲われ火に囲まれた中を剣で草を薙ぎ迎え火をもって無事に逃れたという剣の名前の由来となった出来事です

 

そして走水では小さい波だと小馬鹿にすると暴風雨になってしまった為に弟橘媛が身をもって救った、、、なぜわざわざ波が小さいと小馬鹿にする必要があったのか、何かが隠されている気がします

 

やがて折角尾張へ戻ってきたのですが帰ろうとしたのではなく伊吹山方面の賊退治へ向かったんですね、だから求婚はせず剣を預けていった、、、はておかしい

 

これから賊退治へ向かうのになぜ剣を置いていったのか、戻ってくる約束の印にしては既に一度戻って来ているのだからそこまでして信頼を獲得する必要は無いでしょう

 

ちょっと待って! 伊吹山の暴風雨で命を落としたんじゃなくて賊退治に向かって返り討ちに遭ってませんか?

 

そして駿河でも賊に襲われている、つまり相模でも小規模勢力だとタカを括ったら思いのほか強く妻を喪ったということなのではないか?

 

ちなみに弟橘媛は船から飛び込んで暴風雨を鎮めたということなのでそれはつまり航海の守護神、、、やっぱり船玉命として祀られていても不思議はなかったんだ!! 名古屋と亀山はとても近い!

 

日本武尊の東征は関東の制圧だったのであちこちで戦うのは当然ですが暴風雨も賊だと考えれば静岡から先全体が東征範囲だったのでしょう、でも折角帰って来て落ち着いて求婚しようとしたのに再度伊吹山の賊退治へと向かう、忙しすぎる(´;ω;`)

 

何度も命を救ってきた草薙剣を置いていったが為に命を落としたような書き方にとれるのも気になりますが彼の微妙な立場により疎まれていたことがその扱いや記述に影響したと思われます

 

また、この様な扱いを受けた日本武尊は即位していませんがその子である仲哀天皇が実在を疑われるのもこの辺りが少し影響してそうですね

 

 

結局なぜ剱を置いていったのかはわかりませんが宮簀媛は密かに守り続け晩年になって漸く身近な者だけを集めて打ち明けてから正式に祀られていくことになります

 

つまり皇室としてはヤマトタケルと共に宝剱が失われたと考えられえいた期間があるということになるでしょう、そしてどの段階で剱が守られていた事を皇室が知ったのか、さらになぜ返還させるのではなくそのまま熱田で守らせることにしたのか

 

八尺瓊勾玉は宮中で祀られその防衛はしっかりしている、八咫鏡は伊勢で祀られ猿田彦や神武東征に同行した天日別命の子孫達が守っている

 

では最もその力が強調される草薙剣がそのまま熱田で祀られた理由ははたして?

 

名古屋巡拝後半で巡った神社の考察と繋がれば尾張の謎が少しだけ見えそうな気がしてきました(*´ω`*)

 

 

いやはや、緑地だし龍神様について全く掘り下げられる情報が見つからなかったので次の神社と併せた記事にしようかと思ったのですが 行政大うつけか!! からまさかこんな方向へ行くとは思っていませんでしたw

 

なんか、、、今回の巡拝は今までと余りに違い過ぎるぞ...?