どうも、ひのきですm(*_ _)m
日々の参拝記事はどうしても合わせたい時事ネタがある場合を除けば実際の参拝順に合わせてアップしているのですが、記事自体は参拝後速やかに書き上げています
なので経験の蓄積に合わせて知識も増えていっている通りの記事になっているかとは思いますが、ここで突発的にぶっこんできた勝手に記紀考察は完全に今上げている記事を書いた時から2ヶ月前後が経過しており、内容的な齟齬が産まれるであろう事は承知の上でした
が、先日アップした鷲宮神社の記事で うわっ と思ったのですw
そう、この時はまだ無知だった出雲の系譜!
しかもアレです、参拝時には謎の龍神様の光?を見たし本殿も境内も素晴らしかったけれど特に何かを感じ取ることは出来なかったので記憶から消えておりました
無理やりな思考かもしれませんが、記紀考察を6まで書き終えた時はそこまでの参拝記事に続ける形で12月中旬に上げようと思っていたのですが、それだと参拝記事が暫く止まってしまうことになってしまうし、何故か、早く上げた方が良いという謎の使命感を持っていたのです
別に勝手な考察を書いているだけなので本当に謎です
が、出雲の系譜を書き終えたところで偶然にもちょうど考察に当てはまる御祭神への参拝が続き、そしてその考察も書き終えて(記紀考察7・8になります)神社の待機記事も無くなり、さぁ次はどうしようかと思ったその時にアップ日を迎えたのが鷲宮神社でした
あれ?そういえば鷲宮神社の御祭神って誰だったっけ?
そう、龍神様の光しか覚えていなかったのである(特別何かがあったわけでもなければそんなもんですw)
自分の書いた記事を読むと、、、あ、アメノホヒ!?
、、、ナンダコノタイミングワ!!!
というわけでまたしても謎の使命感発生で急遽の記紀考察継続! 既に7・8が出来上がっていたので6.5挿入という手段にw
ではいきます!!(何も感じてなかった雲が人の胸像に見えてきた)
誓約によってスサノオの剣をアマテラスが噛み砕いて産まれた五男神の次男とされるのがアメノホヒ
やがて国譲りにおいて最初に派遣されたのがアメノホヒだったのですが、三年を経ても高天原へ返事を返さない
続いてアメノワカヒコを派遣するも今度は八年も復命せず、さらにタケミカヅチが派遣されると続くのが古事記
ただ、日本書紀においてはアメノホヒの様子を見てこいとアメノホヒの子である武三熊之大人(タケミクマノウシ)が派遣されたという一説が加わっています
これがまた父に同調して帰ってこないということで三人目に派遣されるアメノワカヒコと三陣に渡って出雲側についてしまったことになっている
さて、この日本書紀に出てくるタケミクマノウシこそが、タケヒナトリであると言われているのです
そして今まで見逃していたことに気付きました
タケミカヅチが派遣され国譲りを迫るのですが、なんと日本書紀にはコトシロヌシだけでタケミナカタが登場せず、従わず成敗された諸々の神たちの中で最後まで抵抗したのが天香香背男(アメノカカセオ)だと書かれている
これが鹿島神宮の社伝によるとタケミカヅチが香島へと降臨し、天香香背男と常陸で戦ったとされているのです
待って、天が付いてる?!
一方、古事記において唯一抵抗したとされるタケミナカタですがオオクニヌシの子とされながらも実は記内では国譲りで突然もう一人の子がおります、と名前が出てくるのです
The 不自然
こんな不自然になぜ今まで気付かなかったのか、それは沼河比売との子であるという糸魚川の伝承を知っていたからに他ならない
ということで、カカセオがタケミナカタなのではないか、常陸で敗れて諏訪へと逃れたのではないかと言われてもいるようです
が
まぁそれも有り得なくはないけどそうなってしまうとヌナカワヒメの子は誰?!糸魚川の伝承はどこへ?となってしまう、そして何よりも香香背男ですよ、カカセオ!!
紀内には従わぬ諸々の神(つまり豪族か)を成敗し、邪神や草木、石に至るまで皆平らげたとまで書いているのに、残ったのがカカセオだけであり、タケハヅチを派遣して屈服させたとラスボス的に書いているのである
さぁ大変だ、またしても終着点に思っていたところと随分離れて来た!!(マテw)
いや、そうでなくて、成敗したではなく屈服させたと書かれているのだ、つまり命は奪われていない?! これは確かにますますタケミナカタのように思えてきてしまう
ただやっぱり引っ掛かるのが、天香香背男の 天 なのです
そもそも出雲も高千穂もほとんどが天孫族じゃねーか状態ではありますが、アメノと付くのは高天原直系だけなのです
つまりカカセオは天孫族でありながら葦原中国に住み着いた、むしろ出雲国オオクニヌシの配下となって地方を治めていた人物であると考えることが出来るのです
勿論、記紀外ではあるのですがタケミカヅチ側の鹿島神宮の記録にまでも天が付けられているのですから無視は出来ません、だって天孫族側がわざわざ敵に対して アメノ を付けては残さないでしょう、恥ですもの
それに成敗ではなく屈服させたと書いているところがさらに、同族であることから命をとることなく調伏したという記述にしている可能性が高い
そして話は戻ります
最初に派遣されたアメノホヒは三年戻らず、その息子までも戻らない、そしてそのまま名前が出て来ていないのです(少し出てきますがそれはこの後に)
古事記では、アメノホヒの子であるタケヒラトリは出雲国造、武蔵国造、上菟上国造(上総)、下菟上国造(下総)、伊自牟国造(上総)、対馬県直、遠江国造の祖神である、と書かれています
この勢力図を考えると、武蔵下総上総と香島に相対している、そして常陸に陣取ったという話とも国内ではなく一歩前に出て迎え撃つとして位置関係的に納得がいく範囲です
そうです、もうお分かりですね
古事記におけると日本書紀におけるアメノカカセオが重なってきますね、タケヒナトリはアメノタケヒナトリとも呼ばれていますが高天原から降っていることからアメノを冠する権利があります
また、アメノタケヒナトリだけではなくアメノホヒ自身も戦に加わっていた可能性すらあります、というのも出雲国に降った後に多妻多子だったオオクニヌシの娘を娶っていても不思議は無い、だってアメノワカヒコだってシタテルヒメを娶っていたわけですから(勝手な理論ですがw)
父がオオクニヌシに仕えているところに息子が天降ったのであれば父に従いタケヒナトリもオオクニヌシの配下となって関東へ派遣されていた、、、ん? そういえば鷲宮神社の由緒って!!
見ると、、、び、ビンゴぉお!! アメノホヒとタケヒナトリが配下である昌彦・昌武父子ほか27人の部族を率いて神崎神社を奉祀し、後にヤマトタケルがアメノホヒ・タケヒナトリを祀る鷲宮神社を創建したというのが社伝、故に関東最古とされているのですが、そりゃそうだ、アメノホヒが奉祀したとなれば最古級ですよね
さて、二人と27人(部族でしょうか)を引き連れていたということは関東を治めに来ていた、もしくはタケミカヅチと戦う為に出陣している途中に主君を祀った可能性があります
おっと、、、となると生き神として祀った可能性もありますが、この時既にオオクニヌシは、、、だから国譲りは息子たちの判断に任されたんですね! そりゃそうか、国譲りが成った時に今の出雲大社である天日栖宮を建てて祀られているんですものね
でも、しかしなぜ記紀においてまだオオクニヌシが生きていたかのように書かれたのでしょう、、、あぁぁぁあああっ!! オオクニヌシが既に死んでいたとなると、残された子達が既に出雲国の王だったことになる
それがコトシロヌシ!!(この考察が7・8になるので皆まで書けないw)
天孫族が、、、実はこの時の出雲国がホニャララララララになっていてアメ…いや、ニギハヤヒとアメノホヒが治めていることを知ったとなると!!
あれれれれ、こっちに進むのかっ
オオクニヌシから葦原中国を奪おうと降臨してみたら出雲を治めていた(それは乗っ取られたのか代替わりしたのかはひとまず置いておく)のが天孫族となっている!?と驚いたことでしょう
本隊が降臨する前に音信不通となった先遣隊が出雲を征服していたとあっては高天原の名折れである、だから記紀の記述において 自分のものにしようとした という一説があった可能性が高い
しかも自分たちがやろうとした国としての体を既に成していた
ただ、個人的にはアメノホヒ父子がオオクニヌシを神崎神社に祀っていることから乗っ取りではなく心酔して配下となり、コトシロヌシを支えていたと思いたい
もしそうではなく純粋に乗っ取っていたとしても、神崎神社は彼らに付き従っていた出雲の豪族が亡き国王を祀ったもので伝えとしては彼らのトップ二人を創建者として伝わってしまったという可能性も考えられます
っと、大事なことですが脱線しました、戻りましょう
仮定としてアメノホヒがオオクニヌシの娘を娶っていたとしたら、義理ではあるけれど息子と言うことも出来る! これがタケミナカタ=タケヒナトリ説(どっちもタケが付くしね)の論拠だろうか
だがしかし、さすがにこれは飛躍しすぎた考察というかこじつけ感がある、アメノホヒは誓約の子であるからアメを冠し続けているし別名として出雲で生きたとしてもそれがタケミナカタというのは無理がある、さらにその子であるタケヒナトリがタケミナカタであるというのもやっぱり無理がある
というか、あらあらちょっと待ってよ?
じゃぁタケミナカタとタケヒナトリ、どっちの話が本当よ? 同じ話が名前と場所まで変わって書かれたの? というツッコミもあるでしょうか、ここは華麗に都合の良い解釈を持ち出すことにします、だって勝手に考察ですからw
古事記編纂には出雲系の思惑が反映された可能性があり、だから出雲系により近いタケミナカタだけが書き記された、一方の日本書紀編纂には出雲系の力が及ばず天孫族の話に書き換えられた
あ、この考察は先に書き終えていた次の考察7・8で考えついたものですw
つまり、国譲りで抵抗した勢力が複数あったというのは日本書紀にも書かれているところであり、その中で代表として古事記に書かれたのがタケミナカタ、日本書紀ではカカセオ、つまりタケヒナトリだったということではなかろうか
さて、タケヒナトリはここで出てきましたが、全く消えていたアメノホヒの名がやっと出てきます
日本書紀はとかく 別の言い伝え として同じ話があれこれ変わった形で何度も出てくるので本当に読んでいて頭が混乱して来るのですがw、その中において高皇産霊神は国譲りを承諾したオオクニヌシ(オオナムチ)の為に建設した天日栖宮をアメノホヒに祀らせたとしているのです
これは大事件です、とても大事件です
宮を祀るのは直系でなければならないという古神道のルールを無視して天孫族を斎主にしている
それは記紀の中に何度も、出雲族だけでなく天孫族にも適用されている重要なルールだったのです
本来であれば、コトシロヌシが消えたとしてもその他の息子が斎主でなければならなかったのです
抵抗勢力を全て成敗したと書かれていますが、全ての子孫を亡きものにしたのでしょうか、多妻多子だったオオクニヌシですから直系のひとりやふたりは残ったはずです(もっと居たと思いますけど)
これは都市伝説に繋がりますね、出雲大社本殿においては主祭神であるオオクニヌシが正面(中央)ではなく入り組んだ奥に祀られており、その手前には別天神とされる客神五神が祀られており、それはオオクニヌシを封じ込める為であるというのです
そうであれば天孫族であるアメノホヒが斎主となったのもオオクニヌシを封じ込めたことで出雲を乗っ取った、つまり国譲りが完結したということにも繋がる、後の天孫降臨が高千穂であったのも出雲を残したというよりも既に完結していたから増援する必要が無かったと見ることが出来ます
この流れがアメノホヒは出雲に送り込まれたスパイであったという説の論拠となったのでしょう、、、が、この説を採用するとタケミカヅチに相対したカカセオ=アメノタケヒナトリという私の推論が崩れますw
ただやっぱり、先遣隊がスパイであったならば戦略的勝利として結果は同じままに経緯はいかようにも書き換える事が出来たはずなのにそうされていない、そして出雲と関東をそのまま彼ら(の子孫)に任せたのは少なくともそれだけの理由があったからと見ることが出来ます
つまり、アメノオシホミミがかの国は荒れていると天降りを嫌がったように、国譲りの時はまだ騒乱状態にあった、そしてそれを治めたのが派遣されてオオクニヌシ側についたアメ…おっと、ニギハヤヒとアメノホヒだった(コトシロヌシやタケミナカタも活躍したかもしれませんが)
オオクニヌシは、我々に協力して各地を平定すれば地位を与えると約束して義理の息子としたり将軍?などの職位に就けた可能性が大ですね
つまり各地は彼らに服従しているわけですから、彼らに統治を任せておかないと再び戦乱状態へと戻ってしまう可能性があったということではないでしょうか、だからこそ勝利したのに負けた側のオオクニヌシを祀る天日栖宮を建てて象徴とし、自分たちは出雲国の統治が及んでいない九州を治めることにした
これ、第二次世界大戦において敗戦国である日本のトップ、天皇を廃止しようとした進駐軍が、権力を奪った上で象徴として残した方が国民の統制が取りやすいと考えたのと同じと考えることが出来るのではないでしょうか
そうだ、国譲りで象徴としてオオクニヌシを祀ることで豪族達の反乱を防いだ、そしてオオクニヌシが自ら祀ったとされる三輪山のオオモノヌシ、その斎主を直系子孫から変えてしまっていたが為に人口の半数が命を落としたという疫病(騒乱)が起き、直系であるオオタタネコを探し出して斎主としたことで漸く鎮まったのである
勿論、監視役などを置いてはいたでしょうが旧体制を維持させたのはそれが理由、ただし、やがて出雲国の力が強大となりこのままでは九州に居る自分たちの方が劣勢になると恐れを抱いたことが東征に繋がったとか
うわぁ、毎度の自己満足ながら、こんなところへ考察という名の妄想が繋がっていくとは思っていませんでしたw
これも毎度言っていますが、これはただ記紀にちょっとだけ神社社伝などを混ぜただけの考察なので決して合っているとは思いませんが、でも、結構辻褄が合っちゃってたりしませんかね(*^^*)
現段階の予定では、数日後に考察7・8をアップするつもりですがそこにはこの6.5の考察が含まれておりませんのでちょっと話に齟齬が出てしまうかもしれませんがご容赦ください
とりあえず、一回に収まってくれて良かったw 長いけどw
あ と が き
こうして考えてみると、何も感じられなかった、と勝手に寂しい気持ちになっておりましたがそれを汲んでくださったのか、はたまた感じ取れていなかっただけであの時授けてくださっていたのか、ここへと繋がっていく始まりでもあったのが鷲宮神社だったのかもしれない
前回、出雲大社への道が開かれたのかもしれない、なんて書きましたが、まだまだ足りなかったようです
と言っても、もう23年中は無理なので来年参拝出来るとしてもそれまでにまだまだ知るべき事があるようです
それにしても、ほんっと不思議ですよね
近かろうが遠かろうが、パッと参拝出来てしまう時はほんとにあっという間にその時が来るのです
逆に、行きたい行きたいと言いながらもなぜか時が満ちなければ全然その機会が訪れない
そう考えてみれば、、、私、ずっとお稲荷様に呼ばれに呼ばれていたのが巡拝における 呼ばれる の始まりでした
最近になって、勿論御縁はより強く繋がってはいますが、以前ほど強引に(良い意味でw)呼ばれなくなったなぁ、と思っていたのですが、それがどうも稲荷講に加盟してからのような気がします
既に稲荷の一員であるから強引に呼ぶ必要が無くなった、そうしなくても信奉しているわけですから
さぁ、そんな中で突然ぐいぐいと繋がっていったスサノオ・出雲の系譜ですが、この後、どのように導かれていくのか!!