どうも、日野喜次郎ですm(*_ _)m
数多く米澤へ来て上杉神社にご挨拶しなかった事は一度も無い私ですがその頃は巡拝ではなかったので松岬神社と共に実は今回が初めての参拝となります境内社です
主殿を右手に行くとこちら、朱鳥居があります
そう、位置的に普通の参拝すると見えないんですよね
こちらから本殿の屋根と右手にもうひと棟あるのが見えます
そして右奥に、、、うわぁっ、これは!!!
凄い気配がビンビンします。。。いやぁ、もしかしたら覚えていないだけで実はこちら側に来た事あるかな、なんて思ったのですが
巡拝していない頃だったとはいえそれなりに旅先で気になる寺社を見かけると参拝(というか境内に入って散策)はしていましたのでこのお姿は見て忘れることはありません
実は今回も危なかったのです、マップを見ていた時に境内社があるのかーっていう認識はあったのですがそれもひと月は前のこと
この時はそんな事もすっかり忘れていたので主殿の先客があの騒がしい若者達(楽しそうだったので別にイラッともしてませんw)でなければそのまま参拝してそのまま終わっていたでしょう
ここからはいつも通り、無知のままの参拝と後調べになります
いやー、色のコントラストが美しすぎますね、扁額には福徳稲荷大明神とあります
そしてもうここから氣が強いこと強いこと、呼吸を整え心の中で心身を清めてから鳥居を潜ります
いや、もう近づけば近づくほどヒシヒシと伝わってくる氣迫、でも鳥居手前から見る神狐さん達は厳しめな表情でしたが近付いてみると優しいお顔に見えましてこちらもやはやや内側にお顔を向けていますが正面を向いているので地域スタイルですね
神前に立つと時空が違うような感覚になるほどの氣が満ちていると感じるのですが押されるような圧は全く感じない
あぁ、そうか、そうですよね、、、っと、これは後述にします
いやしかし凄い氣なのにこんなに暖かい気持ちになれるのはやっぱり凄い、お稲荷様だらかはたまた米澤
だからか(*´ω`*)
こちら、普通は社名の神額が掛けられている部分に御由緒が掛けられていましたがこちらも後で確認します
恐らくこちらは覆屋になっていて中に朱色の小社があるように見えたのですが薄暗くてよくわからず、ただ何か輝く小さな円盤だか鐘のようなものが見えてなんだろう、、、と
お社?は写らないようにしますから失礼します、と撮ってみると幕の影によってまさに空飛ぶ円盤型にこちら側が映り込んで光っている鈴でしたw 写真で見るより異常に輝いていたんですよw
では左手の鳥居へ
こちらこそ覆屋ですね、色違いで二社並んでいます
何となくの勘で先に左手のお社へ、なんとなくお狐様がいらっしゃるような気がしたのです
こちら、すぐ後ろではあるのですが奥乃宮!! 実は手前のお社の方が氣を感じたのですがw でもこの社裏が凄く気になります
右手のお社には辨天宮と書かれています、弁財天様だ!! そうか、お濠に囲まれた城は島のようなものですものね
こちらに御由緒が書かれていました
なるほど、宗像大社の奉職神官を経て宮司となられた御縁で勧請されたんですね、そして左は、、、本当にお狐様!!
なんと凄い伝承です
幕府へ請書を送ったところ誤って下書きを送ったことに気付く(これも凄い)、些細な事であれ無礼とあってはとんでもない事態になりうるのが江戸時代、大慌で取られた対策はなんと場内に棲ませていた右近左近の白狐!?(狐飼ってたんですね)
どちらかはわからないそうですが、狐に託して運ばせたが書箱を首から下げたまま戻り疲労困憊で亡くなってしまった、その箱の中には下書きが入っており清書は無事届けられ大失態を免れた、よって白狐は人と同じくして丁重に葬られた、、、のがこの後ろだった、、、ということでしょうか
飯綱の修法とは? 調べてみると信州飯綱権現の神仙道で白狐を使うといいます、なるほど!! あれ? どこかで記憶があるぞ、と自分のブログを検索してみました
あ!!! 横浜巡拝での大綱金刀比羅神社だ!! あの凄い境内での感覚が鮮明に蘇る、、、そして巨大な天狗彫、修験道を元としたというのは当時も調べた気がしますが、白狐に乗り神仙道というところまでは調べていませんでした
なんとなくの勘で狐様がいらっしゃると感じたのが当たった…
改めて横から見てみると!? 何かと思えば木でしたね
祠は無い(雪に埋まっているわけではないでしょう、、、)ようですが祠は、、、そうか、こちらは奥宮とされているので手前のお社へ遷されたのかな? とそちらの御由緒を確認してみましょう
やはりこちらに遷されていますね、そしてこちらには二の丸と三の丸の鎮守稲荷が合祀されているようです
うーん、そりゃぁ凄い氣を感じたのも当然でしたね、城内鎮守と藩を命懸けで救った白狐様が今なお、この神社を、この米澤を守ってくださっているんですから(*´ω`*)
いやはや、こんな凄いお稲荷様を今まで何度も気づかずにいたとはなんということか、と思うのと同時にこういうことが分かるようになった今だからこそご挨拶させて頂けたんだな、と納得もしました
凄い氣は感じたもののもう一社の境内末社と併せた記事にしようと思ったのですが凄いボリュームになってしまったのでw 記事を分けたいと思います(*^^*)b
いやほんと、いつも語り過ぎだけど米澤となると出るわ出るわ、これでも抑え目にしてるんです←をぃ
ちなみに調べていると、実は全国に似たような狐伝説があるのだそうで、それも民間伝承というよりは大名などしっかりとした立場で伝えられているそうです
大体、そういう場合は当時人気があった話がアレンジされて広まったり肖ったりというケースが多いと思うのですが藩がわざわざ自分たちのミスを公にしつつ話題性を狙ったりするものでしょうか
となれば、、、現代においては そんなわけない で済まされてしまうような不思議な力や事象も当時はちゃんと起きていたのかもしれない
逆を言えば、今の世はそうした力が失われてしまっていると考えると、、、寂しさもありますね
米沢は おしょうしな の心
さて、後述です
大分前になりますが、慶次繋がりで地元の方と交流がありました、というか米澤前田慶次の会という市民団体発足時に実は私、会員になっておりまして(´>∀<`)ゝ
設立総会には出席者も居たかもしれませんが、その後の懇談会に県外から参加したのは私だけだったのです、そこでの出来事
まぁ当然ですが数十人の中で知らない人間は私だけなわけでっして基本的に市内在住の方々なので、会長や会計さんをはじめ皆さんが いやぁ東京からわざわざ懇親会まで出てくれてこんな嬉しいことはねぇ、って和気あいあいとお話してくださったんです
ー 今だから言える ー
実はその時、隣に座られた(少し遅れていらっしゃったかもしれないけれどそこは記憶が少し曖昧)自分よりは年上だけれど若い男性が実に体格の良い方で身長もあって締まっていてそれでいて寡黙、周りの方とわいわいするでもなく静かに飲んでらっしゃいました(記憶が定かではないのですが遅れていらっしゃったのかもしれません)
私、こう見えても、いや、実際そう見えるとは思いますが相手から来れば全然イケるのですが自分からはイケない質でしてw
で、お酒も進み、皆わいわいと懇談する中、地元話はさすがにわからない私は少しぽつんと、といいますかひと息ついていたのです
いや、だって凄いですよ、土地の名前が苗字そのものの方、あの有名な朱槍を始め様々な慶次由来の品を代々受け継がれている方々、更には自宅の敷地内が慶次が暮らしたとされる無苦庵跡だという方、伝前田慶次所用の甲冑を所持されている方まで!!(考古館の館長ねw)
いやー、引っ込み思案な自分がなんかすげー団体に入ったもんだなぁ、っていうか加入はまだしも総会に出てくるとかよくしたな、、、と皆さんを眺めていた時
ほとんど誰とも話さず何か見えない壁のようなオーラを放っていた隣の男性がぶっきらぼうに話しかけてきた!!(コミュ障なので私が勝手にそう感じただけですw)
するとどうでしょう、二言、三言、と交わす僅かな間毎に凄い勢いで壁が消えていく、あれ?あれ?という間にそれまで無表情というかやや難しい顔をされていた様に感じていたのが全然笑顔なんです
5分後には、おめぇ次から米澤来たらうち泊まれ!! って!!
いや、もっと沢山話した人とかウェルカムウェルカムな人がそうおっしゃってくださるなら社交辞令、いや、本気だとしてもわかるんですが、さっきまでの寡黙な、誤解を恐れずに書いてしまえば気難しそうな方がそれを言う!?
いや、でも、だからこそ有難いと素直に思い、ありがとうございます~、と心底感謝しつつ薄らと心の中ではさすがにお願いする事はないだろう思ったのです
すると男性は直ぐにその笑顔から元の真顔に戻って言うのです
ほんとに言ってんだ、米澤の人間はよそもんに冷たいかもしんねぇけど一回懐に入ったら家族だ
いやー、うるっと来ましたね、だってこの会話の5分10分前に初めて言葉を交わし始めたばかりなんですよ?! もう感動しかありません、真の心の言葉です、これぞ米澤の漢です
なのに、、、なのにですよ、、、このあっほたれ(私)ときたら、他に書くものが無いからって割り箸袋に書いてくださった連絡先をなんと、、、忘れて来てしまったんです(号泣)
いやね、言い訳をすると、その直後に中締めが始まって東京からわざわざ出てくれたって挨拶させられてw さらに中締めが終わるやいなや よし!今日はわざわざ来てくれてこんなに嬉しい事はないから次のお店行こう!! って連れ出されたんですw
いや、もうその気持ちも凄く嬉しかったんですが急展開過ぎて酔いが回りつつあったおいらは連絡先を忘れた事に気づいたのが帰りの車内でした..._| ̄|○ il||li
タイミングもタイミングだったけれど、なぜすぐにポケットでもカバンにでも突っ込まなかったのか...小市民なので実際に泊まらせて貰いまではしなくても、連絡して挨拶やお食事は出来ただろうにと
ここで懺悔します、今でも覚えていますごめんなさい、そしてありがとう、あの時の言葉はずっと忘れること無くしっかりと胸に刻まれています!
ちなみにその二次会に遅れて来た方は、ほい、帰りのバスで食いなさい、って牛肉どまん中を買って来てくれました、マジでみんな優しいって(´;ω;`)
そしてそのスナックで 米沢ラーメン食え って注文されて(懇親会でお腹いっぱいなのにw)、こんなとこで食うラーメンなんて大したことないって思うだろ? それがうめぇんだぞって、、、
それがね、もうね、めちゃめちゃ美味かったんですよ! この時以来、米沢ラーメンが大好きになりました(*´ω`*)
しかし、供養祭にはなんとか参加出来る年もありましたがなかなか行事には参加出来ず、会報とお知らせだけを送って頂く日々、、、勿論、会費は調査維持広報活動費として使って頂けるので良かったのですが、実際に参加して貢献出来る事が何もないという状態が申しわけなくなってしまったのです
勿論、あの皆さんならば、そんなことねぇよ!!と言ってくださったでしょうけれども(´・ω・`)
というわけでなんで思い出話を垂れ流したんだって感じですが、要は余所者は警戒するけれど同じ志を持っていたり一旦懐に入ればもう家族だって事が言いたかったのですw
他の神社においても、小さな鎮守であればあるほど参拝前には圧を感じ、ご挨拶をすると急に居心地が良く感じる事があります
米澤だからって勝手にホーム扱いしていましたが、未参拝の神社だったりそれこそ厳しいところであればあるほど、何者じゃ、と構えられても当然
さらには何度も訪問していながら今まで気にもしていなかったとなれば殊更、漸く来たかぃ、となっても当然なのであります
私からすれば神様だって仏様だって霊魂だって皆、姿形に関わらず生きているんですから(*´ω`*)
というわけで、おしょうしなってなんだ?と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、こちらの方言で ありがとう の意味です
ありがとう なのですが、そこには感謝の背景にあるおもてなしの心も深く含まれていると感じており、初訪の頃からとっても大好きな言葉です(*^^*)
こんなにも長い米澤愛独白記事を読んでくださって、ほんとにおしょうしなでございます(*´ω`*)