日々是"吉"日

ゆるゆるなスピリチュアルでパワースポットやパワーストーン、原石、お香などを楽しんでいる日々の日記です。

~とおりゃんせ~ 三芳野神社

 

 

とおりゃんせ

 

とおりゃんせ

 

ここはどこのほそみちじゃ

 

てんじんさまのほそみちじゃ

 

 

どうも、ひのきですm(*_ _)m

 

誰もが知っている有名な動揺 とおりゃんせ ですが、その歌詞に天神様と出てくるので神社の風景が目に浮かびます

 

その舞台として二箇所、小田原の山角天神社と川越の三芳野神社が有力なのだそうです

 

というわけで、三芳野神社へやって参りました!!
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おぉぉ、、、細道じゃ、、、

 

 

その前に(。-_-。)b

 

参道を少し東へ行き過ぎたそれこそ細い道角を曲がり住宅地の中へひょいと入ったところ

 

三芳野稲荷神社です
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ほんと、家と畑?の中で知らずに見たら農作業具とか入ってそうな古い倉庫かなっていう雰囲気ですが、存在感しっかりと鎮座されています

 

伏見より勧請らしいとあるので宇迦之御魂神が祀られているでしょうが、由緒不明!! もしかしたらどちらかの方が建てられた邸内稲荷かもしれませんが、天神様の細道のすぐ前(あたり)に鎮座されるお稲荷様ですからご挨拶させて頂きました

 

門番さんでいらっしゃるかどうかはわかりませんが(*^^*)

 

 

というわけで、いざ、てんじんさまへ!!
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とぉ~りゃんせぇ~とぉ~りゃんせぇ~

 

ついつい歌っちゃいますね(≧∇≦)

 

素晴らしい参道は中央が砂利になっていて両端を歩くようになっています
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中央は神様の通り道!と言われますが、神様はお空からお社へ降りて来られるので参道は通られないのですが、やはり中央はご神職様など祭祀を司る方が通られる場所ですから参拝する私たちは端を歩くべきでしょう、、、と私は勝手に思っていますw

 

何の為でしょう、途中にこうした石が両側とも置かれていて踏むにはちょっと気が引けるのでその脇の細いところを歩いてみたところ ほ、、、細い、、、と思わず口を吐いたので振り返って撮影してみましたw
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ここは元河越城の曲輪、つまり攻め込んできた敵が真っ直ぐ向かってこないようにカクカクっと曲がった細道でして、場内に鎮座する神社だったことから通りゃんせの歌が生まれたという説が伝わっています

 

竹の中にたけのこが伸びたんだなーっていう茶色い子が混じっていますね

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鳥居に到着!! そういえば一の鳥居が無かったな、と思ったのですがそもそも場内神社ですからそりゃそうか、と
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朱色が美しい、そして思ったより大きな御社殿でシンプルながらとても綺麗です
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御祭神は天神様、、、と思いきや主祭神素戔嗚尊奇稲田姫命

 

創建は806年頃と伝わっているかなりの古社で大宮氷川神社より勧請されたと言われています、つまり氷川神社だったんですね、江戸期に北野天神社が勧請され、その時なのか後になのかはわかりませんが菅原道真公が配神となり三芳野天神と呼ばれるように、また明治には八幡宮も合祀され誉田別命が祀られてから三芳野神社と改称されました

 

その頃から初雁などで将軍が度々訪れたことから民衆からの参拝希望が多かった事から特別に場内へ入れた、これが通りゃんせの由来となっているんですね

 

しかし、いやーすごい、まるで城のように立派な社殿です

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社殿左手には大国主命を祀る大国社
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右手の山側には二社
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蛭子命を祀る蛭子社
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その奥には宇迦之御魂神を祀る稲荷社が鎮座します
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明らかな空気感で違いないと思いましたが近付いてみれば小さな白狐が供えられ、なんとお社両脇には宝玉の瓦です

 

もしかしたらもっと大きなお社だったのが崩れてしまったのか遷座されたかで残った瓦だったりするのでしょうか(純粋に奉納されただけだったりして)

 

境内左側、大黒社の裏側がちょっと広くなっていてそちらに石碑がありました
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こちらには七不思議の看板がありました
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おや、方葉の葦の話がありますがちょっと待ってください、太田道灌の娘さんも七ツ釜に身を投げているんですね

 

お稲荷さんが独特の雰囲気だったのは私がウカ様好きだからという目で見ているからでしょう、主殿も立派だったし境内社も素晴らしく、そして細道がとても素敵でした

 

喜多院方面から北へ来られる方は是非、細道を歩いてみてはいかがでしょうか

 

ハッ!! にゃ~んこ!!
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近付けるか、、、とゆっくり歩いていくと ぴょんっ
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触らせはしねぇぜ ^•ω•^
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境内北側へ抜けると本丸御殿などがありますよ(*^^*)
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あとがき

 

とおりゃんせの伝承には様々な都市伝説があるようでして、様々な説を併せた中での勝手な個人考察です(*^^*)b

 

所詮わらべ歌だからねぇ、なんて笑い飛ばそうにも謎が多くていろいろ推察したくなるのも納得

 

ー通りゃんせ通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ?

ー天神様の細道じゃ

ちょっと通してくだしゃんせ

ー御用の無い者通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに御札を納めに参ります

ー行きは良い良い帰りは怖い

怖いながらも

ー通りゃんせ、通りゃんせ

 

城の門番と母の会話が童歌になっているのですが、色々推察したくなる歌詞ですよね

 

1.普通に城中の天神様へ七五三参りに来た母子のお話

2.口減らしのお話

3.人身御供のお話

4.戦を前に警戒が強くなっているお話

 

調べると出てくる考察では上のよっつくらいが主でしょうかね

 

 

まず歌詞を順に辿ってみます

 

冒頭から母親が道に迷っていると思われるところですが、これに対しては城の中は敵が天守など中心へ向かいづらくなるよう非常に入り組んだ造りになっているので迷って当然と言えます

 

が、村人に開放して門番を付けているのならばその道しか通れないようにしているはずで、だからこそ歌の始まりで門番が「通りなさい通りなさい」と言っていると思うのです

 

であれば、この道がどこに繋がっているのかを知らずに来ることなどあるでしょうか? ここで4番、母子を装ったスパイが開放をチャンスと見て城内部の造りを調べていたとも考えられます

 

現実的に言えば、御札を納めにと言うのだから御札を持っているのかどうか確認すれば良いと思うのですけどね、この短い歌詞でそこまで突っ込んじゃぁ無粋ってなもんです

 

 

警戒を深めた門番に対して 用 の答えが 七五三

 

七つの御札を納に来たということは、三つ、五つに続いて三回目の参拝になるはずなのでかなり怪しいということで門番が突然厳しくなったのも頷けます

 

まぁ子が五つ過ぎになった頃に城下へ越して来て初めての七五三だったのかもしれませんが、それだとしても普通は「天神様はこの先ですか?」と聞くのが普通でしょう

 

そして様々な推察を産む原因になっていると思われる部分が「行きは良い良い帰りは怖い」でしょう

 

怪しみながらも入れてくれる門番ですが、帰りは 怖いぞ と脅しているその理由が謎なのです

 

怖い→暗い が訛ったもので帰りを心配してくれているという説もあるのですが、普通に考えて(普通に考えちゃダメな気もしますが)門があるような多くの神社は夕方以降に閉門されるのが普通ですしそれが城ともなれば夜祭でも無いのに暗くなるギリギリまで開けている可能性はかなり低いと思います

 

また純粋に、行かせてあげるけど帰りに子供を連れて居なかったら容赦しないぞ、という意味に取れる事から口減らし、人身御供という説が根強い理由かと思われます

 

ですが、調べてみると北関東では こわい=疲れた という使い方もされていたようですので行きは良いけど帰りは疲れるから気をつけてねーというとても優しい門番の姿も想像出来ます

 

そこで現代地図に川越城内を重ねた図を見てみたのですが、、、天神様の位置が変わっていなければ、城門を潜ってから境内までそれほどの坂という坂になっているわけではなく、行きは良いけど帰りに疲れるというほどの場所では無いと思います

 

もしかしたら、、、最後の一言はお母さんではなく、七つになった子供へとかけられたものだったかもしれませんね(*^^*)

 

さて、とおりゃんせ発祥の地とされているのは川越だけではありません、国府津の菅原神社を元にした考察もあります

 

細道というのは箱根の関所ということで用事が無ければ通れない、理由があれば通れるけれど帰りが遅くなると閉まってしまう、戻る時には厳しく問い詰められるというお話だというのです

 

ごもっとも!! と言いたくなるのですが江戸期に流行ったというこの童歌、やっぱり不可解な部分があるのです

 

そもそも関所って、しかもかなり厳しかったと言われる箱根をそんな簡単に通して貰えるとは思えませんし、行きは良い良い帰りは怖いが適用されるのは逆方向、江戸から出る時は楽だけど江戸へ戻る時は厳しく調べられるんじゃないかと思うんですよね( ̄・ω・ ̄)←完全に想像ですけど

 

あと、それこそ関所を通るのに「ここはどこの関所ですか」なんて聞かないでしょうし、門番が「通りなさい通りなさい」なんて事も言わないと思うんですよね

 

 

というわけで、個人的に消去法で消していくと残る1番を勝手な妄想ストーリーで描いてみます

 

 

夫を亡くし女手ひとつで息子を育てて来たため貧しくて貧しくてこれまで七五三のお祝いなんて出来やしなかったけれどこれから大人になる七つのお祝いこそはしてやりたいと頑張って御札を用意した母

 

貧しい身分でお城なんてご縁の無い場所、人に聞き人に聞きなんとか辿り着いたお城はまるで迷路のようで、あっちへ行こうとすれば「ここは通れぬ!!」「こっちへ来るな!!あっちへ行け!!」と門番に怒鳴られ、辿り着いたのが天神様の細道だった

 

これまでの怖い門番とは違い「通りなさい通りなさい」と言ってくれているので意を決して「この道はどこへ行くのですか」と聞くことが出来た

 

「そうかそうか、ここまで散々怒鳴られて来たか、致し方無し、帰りも道を間違えたらまた怒鳴られて怖いかもしれぬがここは通れるから行っておいで」

 

めでたし めでたし

 

ちょーーーっと待てぇぇぇぇ!!

 

あのちょっと不気味な音程リズム、そして鬼(門番)が子供を捕らえるところはどー説明してくれるんだぁぁぁ!!

 

はい!!先生!!(  ˙꒳​˙ )ノ          ヽ(` Д ´ ) 説明したまえ!!

 

日本で有名な関所遊びにはもうひとつ、ロンドン橋がありますね

 

遊び方は同じで信号の音にも使われていて、あれも楽しそうなメロディながら少し音程が変わるだけで物凄く不気味ですよね、それもそのはず関所遊びで捕まえられるイメージがあるからじゃないでしょうか

 

とおりゃんせのメロディが独特に怖いのは当時使われていた音程やリズムが現代的には少し怖く感じやすいところだからじゃないでしょうか

 

そして!!

 

ロンドン橋の歌詞が成立したのは(不確かながら)1600年代かそれ以前と言われています、そしてとおりゃんせの成立も江戸期、つまり1600年以降と言われているのです

 

近くね?(*´ω`*)  寧ろ海外から入ってきた説!?⸜( ᐛ )⸝

 

おいおい、ひのきよ、大事な事を忘れてはおらぬか?(   ´灬`   )

 

( * ´꒳`*) はい?

 

江戸時代は鎖国じゃ!!(   ´灬`   )

 

( * ´꒳`*) 古いですよ先生、歳がバレますよ

 

どういうことぢゃ!!(  ˙灬˙ )

 

( * ´꒳`*) 鎖国と言われていますけど実際は交易窓口を絞って幕府だけが管理することで利益と情報を独占していたのであって海外の情報をシャットアウトしていたわけではありまてん

 

わっ、ワシらが習っていたことと違うぢゃないかぁぁ( ` 灬 ´ ; )

 

まぁ窓口となっていた四つの港町から江戸までは遠いので実際に交易によってロンドン橋という歌と遊びが伝わったかどうかわかりませんが、情報を幕府が独占していたというのであれば江戸で流行したというのもおかしくはありませんよね

 

重要な情報ではなく遊びの童歌ですから情報統制の必要もなくお役人さん達が子供に教えてそれが広まった可能性は十分にありうる気がします

 

当然村人達は英語なんてわかりませんので遊び方とリズムだけが伝わる、そして身近で流行っていたとおりゃんせが選ばれた

 

なんていう説はどうでしょう!!(*◎ω◎)=3 フンッ

 

あー考察ごっこ楽しかった(*ˊᗜˋ*)←おい

 

江戸時代、それより手前の明治大正だって、いやいや昭和の出来事だって文献に残っていることも残っていないことも、そしてそれが本当に真実なのかどうかわからないわけです

 

まぁわからないからこそ、こうして色んな人がいろんな研究をしていくことが出来るわけでしてね、結果、いつか正解が分かれば良いのですがこれこそが正解だ!!という信頼度の高い文献が突然出てくるかどうか、出てきてもそれを信用することが出来るかどうか

 

歴史って奥深いですねー(>_<)