どうも、ひのきですm(*_ _)m
御器所八幡宮の参拝から地下鉄で移動、っと駅までの途中に神社があるので寄ってみよ~
というまたまた軽い気持ちでやって来たのがこちら、尾陽神社です
またしても思っていたより大きい( ˙꒳˙ )
義直公は初代尾張藩主、そして慶勝公は三輪神社に祀られていた義宜公のお父上ですね、17代は子の夭折によるもので名古屋開府300年を祈念して県と市により明治43年に創建、公式HPによると当社創建までは名古屋東照宮に合祀されていたそうで、1949年に天照大御神が主祭神として祀られたそうです
元ジモティー(この辺りの者ではありませんがw)として愛を込めて言えば、こんな住宅地ばかりで特に何も無いエリアがなぜ選ばれたんだろうとは思いますが用地的なものかもしれないなぁ、とこの時は漠然と考えていました
石段を登ると三葉葵の山門
普通に見えるけどこういう味のある手水舎、好きです(*´ω`*)
社殿前が広くお手本のような境内は気のせいかもしれませんがどこかちょっとお寺な雰囲気を感じます
境内中央に凛々しい御神馬さんが! こちらにも三葉葵が輝きます
午年産まれなので御神馬さんは大好きです(*´ω`*) 綺麗になびく尾が素敵で、、、あっ、尾陽神社だ♪
まぁ尾というのはさすがに違うでしょうが調べても社名の由来はわからず、まぁ、、、ってところで気付きましたよ、尾張の尾!! 開府300年を迎え明るく照らされ続けますように、って感じじゃないでしょうか(*´ω`*)
ご近所の方が数組いらっしゃってほのぼのとした境内、うん、とっても長閑でまさに陽の氣ですね(*´ω`*)
ずいぶんしっかりとした社殿ですが元の社殿は空襲で焼失、さらに復興した仮本殿も伊勢湾台風で倒壊したため、現社殿が建てられたのは昭和45年 1970年です
そうそう、名古屋を出てからカルチャーショックのひとつに伊勢湾台風がありましたがこれは後述にしましょう
境内の右奥、ちょっと不思議ですが社務所ではない建物の正面に鳥居、お社は左脇に鎮座されています
こちら、久延彦神社です
...久延彦神社ですと?!
目の前には建物がありこの好天にあって暗がり、にも関わらず朱の社殿は明るく輝いて見え(写真では暗いのですが)御神威をとても力強く感じる
すぐに感じたのは広い境内全体の陽と小さなこのお社の陰で凄くバランスが取れている、そう思って周りを見渡したのですが違う、このお社だけで陰陽のバランスが取れていてこんな日陰なのに陽の氣も凄いのです
御祭神である久延毘古命は大国主に多くの知恵を授け、少彦名命の神名を知っていたのは久延毘古命だけだったとされています
そしてこちら、なんと1976年に大神神社より分霊を受け、さらに大阪府枚方市の山田神社より譲り受けた社殿は200年前に春日大社本殿として使用されていたものだそうです
なんという情報過多!!
山田神社には境内に春日大社より勧請された春日神社があるのでもしかしたらそちらの社殿に使用されていたものかもしれませんがちょっと情報が無くてわかりませんでした
というかこちらはいわば県立市立、つまり公立神社と言ってもよいでしょう、皇祖神に御無礼ですが、天照大御神も後から主祭神に祀られていることから旧尾張藩と徳川家の神社と言っても良いでしょう
それがなぜ大神神社から久延彦様を勧請?!
...なぜだ? なぜなのだ?
ちなみに東海地区のマップで久延彦神社と打つとぐるり三輪山へと飛ばされてしまいましてw そして名古屋や愛知と久延彦神社でキーワード検索しても当社しか結果に出て来ません
というか久延毘古命を祀る神社としては他に石川県の能登くらいでしょうか、、、能登?! しかも久延毘古のクエは久江であり、最初に久江(能登)に定住した住民が五穀豊穣祈願神とせ祀ったとされていてしかも式内社である、つまり平安期よりも前から祀られている
大神神社の久延彦神社は神代から祀られているというのですが、三輪山から能登へと移り住んだ人々が祀ったのでしょうか、或いはその逆の可能性もゼロではなかったり?
いずれにしてもしつこいようですが、やっぱりなぜ尾陽神社が久延毘古命を勧請したのかについてが気になりますね、大須の大神神社と何か関係があったりするのか無いのか...
境内左手にはもうどう見てもお稲荷様ですね、その右手にも境内社が並びます
お稲荷様は永世稲荷神社、鳥居の手前から凄い氣が社殿から押し寄せるようでゆっくりと神前へ、こちらはなんか凄いぞ、、、と気を引き締めてご挨拶
こちらなんと1973年に遷された徳川本邸の邸内稲荷だったのです! いや、そりゃ凄かったわけだ、だってとてもじゃないけど社殿の撮影が出来なかったくらいですからね
そして右手の境内社は垣に囲まれ祭壇のようになっている、こちらもやはり特有の氣が流れていて御祭神名が見えなかったのでその隙間から覗かせていただくと迦具土命を祀る秋葉神社、そしてなんと龍神社!!
こちらもまた凄い渦を巻くような不思議な御神域となっていて龍神様の氣かと思っていたのですがそれだけではありませんね、火と水が並び祀られて渦を巻いている
つまり火水の陰陽!!
ちょっとこの境内、東は久延毘古命がおひとりで陰陽の氣を放たれており西は稲荷神の力を火水の渦で巻き上げその結界に守られた境内中央はとんでもなく朗らかな氣で満たされている
なーんてそういう相の知識も無い奴が思うままに言ってるだけです
多数の災難に遭ってきた神社ですから火防と水難避けでしょう、と思ったところでこちらの立て札を発見しました
御器所西城、、、ここだったのかぁぁぁぁぁ! つまり平城だったそうですが濠は巡らされていたので龍神様が祀られているのは当然ですね、濠を埋めたからという可能性もありますが元々祀られていたのかもしれませんね
やっぱり川や濠の多い名古屋は龍神様も多い!
いやー、ほんと、今回は由緒も調べず参拝しているのに凄く繋がりの多い巡拝になっています
これまで近くの神社を巡拝してもそんなにあっちもこっちも繋がるところってあまり無かった気が(私の調べ・感じる力が弱かっただけかもしれませんが)
いやー、しかし名古屋の神社が持つポテンシャル恐るべし
さて、移動する為に最寄りの荒畑駅(もしかしたら初めて使ったかも)へと向かったら、、、な、な、な、なんだこれは!!!
ここは山王通り(そういえば山王様ってどちらなんだろう)、幼少期は自転車で市内広範囲を走りまくっていた私は何度も通ったことがありますがこんなの無かったはず?!
調べてみると2008年秋にオープンした結婚式場なんですね! こんなところにこんな凄いのが建ってたとは...
さて、後述にした伊勢湾台風についてです
はい、問題です
過去大被害をもたらした台風と言えば?!
という大きな括りにするとかなり広くなるし地域差がさらに大きくなってしまいますね、では
昭和三大台風を全て述べよ!!
ってそんなのほとんどの人が無理ですよ(≧ε≦*) 壮年の方ならばお答え頂けるかもしれませんが
室戸が有名なのでほか二つは霞んでしまうかもしれませんが授業でやったので聞けばなんとなく耳馴染みがあるかと思ったのですがなんと東京に来ると9割以上の人が聞いたことも無いと言ったのです
どこでも授業でやってると思ってたのですが私の年代ではもう東海地区だけだったようです、伊勢湾台風物語ははだしのゲンと共に授業で必ず観るアニメ映画でした
その後、別件ですが愛知南部へ社会見学に行った際にバスガイドさんが何か質問ありますかーって言うじゃないですか、私引っ込み思案なので絶対に黙ってる性格なんですがその時はどうにも気になったことがありました
車窓を見ているどの家にも必ず、軒下か二階の壁に木船がぶら下がっているのです
誰も何も質問しない中、気になって仕方が無かったので手を上げて聞いてみると(セールストークでしょうが)驚いた顔でその質問は初めてされました、良い質問ですね!と伊勢湾台風の教訓として必ず備えられるようになった事を教えてくださいました
そう、あれとあれという間に高潮がまるで津波のように押し寄せ一階は全て埋まってしまった、さらに1時間近くもその状態だったという
ご興味をお持ち頂いた方は是非、伊勢湾台風浸水地域のマップを画像検索して見てください、恐ろしい範囲が水没しており押し寄せた高潮は湾から木曽三川をも遡上して下流の弥富から大量の金魚や鯉が20km以上も北まで流れて着いたそうです
ちなみに一般的にはやはりあまりイメージが無いでしょう、災害ニュースなどでも近代では酷い高潮被害は滅多に聞きません
実は1959年に甚大被害を出した伊勢湾台風時の高潮の高さは気象潮で3.45m、で天文潮で3.89mと共に観測史上最大となっており、895hPa、最大風速75m/s、死者行方不明者5098名、負傷者約3万8000名という酷さでした
勿論この時は台風の規模、潮、そしてちょうど伊勢湾を通って海水を押し上げてきたという針路などが重なってのものですが大昔は海岸線がもっと北にあり河川の多い名古屋において水害には常に悩まされていたでしょう
古代より蛇信仰、龍神信仰が篤くそれは失われることなく続いている土地、つまり、龍棲まう地
だからこそ名古屋を龍脈とされる方が多いということなのでしょう