どうも、ひのきですm(*_ _)m
滝尾神社から二荒山神社を目指し歩いているとこちら、六道閻魔堂に出会いました
そのまま通り過ぎようとしたけれど小さく案内も書いてあるし読むだけ読んでいくか
ほうほう、この辺りは六本の道が合流していたことから仏教での六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に通じるとして1701年に閻魔大王を祀る閻魔堂が建てられたそうで現在は再建されたものなんですねー
なるほどぉ、じゃぁ先へ進も...と数歩進んだところで凄い呼ばれている感!? いや、私はこれから二荒さんへ...うん、それほど急いじゃいないし今回は暑さを加味して三社しか予定していないので時間はあるじゃないか、呼ばれて行かぬは巡拝の恥(なんだそりゃ)
というわけで境内へ、、、と即座に異様な雰囲気を感じる、確かにお堂付近は少し殺伐とした感はあるけれど、こうして全体を見ると凄く長閑に見えますよね! しかも境内真ん中の木が物凄く素敵な氣を発しているんです
にも関わらず全体的に周りとは全く違う空気が流れている
根元にはポッカリと大きな虚が出来ていて保護で埋められているようなのですがこれがまるで異世界へのトンネルのようです
なんかもう良い天気だしこの木の根元でのーんびりしていたいなって思うほどに魅力的、なのに木の周囲ほんの狭い部分だけが心地好く少し離れると緊張感のある少しどんよりした感じになってしまう、この重みは一体なんなんだろう
お寺系はそれほど多く巡っていないのでわかりませんが、神社では厳しい氣に満ちている場所はあれどこの様な重苦しい雰囲気に包まれる事はなかなか経験が無い
かと言ってすぐに立ち去りたいという感覚になるわけでもなく逆に何があるんだろうとゆっくり境内を歩く、勿論怖いという感じは無く、なんて言うんだろう、、、少し悲しいような重い空気を感じる
木の右手には石柱が三柱、どれも 南無阿弥陀仏 と彫られています
こうして写真で見ると陽が当たっているのにやや重たい感じもありますが実際はさらに割増で重い空気を感じました、ただやはり木が近かったこともあって混ざりあった雰囲気がとても不思議
こちらが閻魔堂、焼失による再建とのことですが右側の鐘型の火灯窓は板が斜めにズレており、遠目には綺麗だったのに近付いてみると少し老朽化が目立ちます
閻魔像も新たに祀られているのかはわかりませんがしっかりとご挨拶、やはりどこか寂しい雰囲気を感じますがお堂から出ているわけではない
ということは...
そう、先程からずっと目には入っていたのですが、境内右手に石仏とお社が見えていたのですが少し鬱蒼とした感じで見た目は不気味でした、ただこれまでと逆で見た目ほど不気味さは感じません
むしろこちらに目を向けていても重い空気感は背後から、というよりも土全体からというかもうほんと、境内そのものが違う世界になっているんじゃないかという感じ、とても快晴の爽やかな朝とは思えない
近づいてみると左側に何か石の枠なのか台座の跡なのかわからない場所がありました
見た目が少し怖いような中央のお社は変な自信があってここではないという気がしていましたが近付いて覗き込んでみるとやはり荒れてはいますが何も感じない
御幣や御神体の跡も無いので普通に使われなくなっただけではないかと思うのですが、強風などで飛んでしまった可能性も無くはないですが
閻魔堂境内に仏像と並んでいるので元は稲荷社だった可能性はありますが不明、もしかしたら眷属様だけが残られている場合もあるかもしれませんが私には特に何も感じられませんし、朽ちかけてはいるものの凛としたお社からは若干の神聖さこそあれ怖さなどは一切感じません
そして並ぶ石仏、写真では穏やかな雰囲気に見えるように太陽が降り注いでいるので穏やかではありつつもやっぱりこの辺りが少し寂しい雰囲気に見えてしまうのは先入観でしょうか
あまり目が良くないので暫く気づかなかったのですが、不思議な形をしていると思った角の石像は台座蓮と頭部だけになってしまっているんですね
こんな風に脚と胴が無くなってしまっているからだろうか、でも倒れ放置されるわけでなく出来る限り綺麗に整えられている気がします
そして不思議と、ひと通り境内を巡り石仏に手を合わせた後には若干の重さは残りながらも寂しさはあまり感じなくなっていた気がします、勿論その後にも何らかの影響が出ることはありませんでした
結局、なぜ素通り出来なかったのかはわからなかったのですが記事にしようと調べてみると...
私が歩いてきたのは六道通りでここが六道辻、そしてこの場所がまさに戊辰戦争宇都宮城の戦いにおける激戦地であり巻き込まれた閻魔堂は焼失
戦線はさらに北の會津へと移り、新政府軍に捕えられた旧幕府軍長岡藩兵達は処刑前に敵である宇都宮藩兵の山本三男へ愛刀や軍費を差、相当の費用に充ててくれ、と託した
当時は旧幕府軍の遺体は放置されるので住民達が仮埋葬していたそうですが賊軍に墓を建てるなど以ての外という時代、戦争を終え戻った山本三男は長岡藩士から受け取った軍費を元に有志と住民の協力を得て墓碑を建てた、軍刀は二荒山神社を経て護国神社へ移されたそうです
一時は墓碑の由来が忘れられ、当時の話が出て来てもまさか賊軍の墓を建てたわけが無いと一蹴されたり賊神(祟り神)として恐れられる時代もあったようです調査の結果それが真実だったと証明され、今の時代まで地域や長岡、會津が協力して守っている墓碑と石鳥居
それは六道閻魔堂の真向かいだった
嘘だ、そんな大きな鳥居があったら気付かぬはずはない、とストリートビューで確認してみたらどう間違っても目に入るというくらいしっかりと、なんなら歩いて来たほぼ真正面にその鳥居があった
いつもなら真っ先に目に入る、例え視野外となる脇道の先であってもなぜかふとそちらを見て気づいたりもするのにこれほど目の前でありながら気づかなかったというのは不思議でならない
閻魔堂がなぜ呼び止めてくれたのかわからなかったけれど、六道を通っていてこの歴史を知らぬは宜しくない、と調べるよう勧めてくれたのかもしれない
境内が重く悲しい気持ちであったのは激戦地であったからなののだろうか、ただそれでも怖い・恐ろしいという感じは無く立ち去りたいという気にもならなければ鳥肌のひとつも立たなかったのは山本氏と勇気ある人々の行動とそれを受け継ぎ後世に受け継いでいる方々がいらっしゃるからなのかもしれません
いろいろ調べた今考えると、あの木の虚は六道を繋ぐ穴だったのだろうか、あの木だけが物凄く魅力的な氣を放っていたのはこの地で亡くなられた両軍多くの方々にとって大切な安らぎになっているんじゃないだろうか、と思う
...だめだ、なんか浅い、そもそも宇都宮でどういう戦になったのだろうか、と調べてみた(明治維新辺りの歴史には疎い)
宇都宮城は旧幕府軍によって攻められ陥落、新政府軍の援軍が到着すると城や街を焼き尽くす激戦となり旧幕府軍は會津へと撤退した
敵味方に別れたとはいえ攻められ城を奪われ追い出したものの城も街もボロボロにされた側としては確かに憎き敵を丁重に葬るなど許さないという強い風潮があったのも無理はない
旧幕府軍新政府軍どちらにも個別の思い入れは無いのですがやあり時代が抉った傷は決して浅くはなく、どちらかと言うと先に旅をしていて縁もある會津や長岡側の立場に立って考えがちでした
戊辰戦争に対する理解に乏しく宇都宮城の戦いすら今回知った私ですが、今回歩き回ってとても好きな街のひとつになった上でその歴史を知ると、そんな三都市の有志達が守り伝えているこの場所を素通りしてしまうことなく気付かせていただけたというのは本当に有難いと思います
そしてここまでを書いた数日後、前から観よう観ようと思っていた峠という映画、基本的に役所さんの時代劇は問答無用に観るので内容も知らぬまま観始めたのですがなんと戊辰戦争における長岡藩のお話であまりのタイミングに驚愕
ほんと、ひとつの偶然がまたひとつ、ふたつ、みっつと引き寄せて紡いでいくものなんですねぇ
にしても、、、しつこいけれど私が通った時も本当にあの鳥居はあったのだろうか、っていうくらい分かりやすいんだけどなぁ...不思議だ...
続いて東武宇都宮方面へ歩いていると暈が出て来ました(*´ω`*)