どうも、ひのきですm(*_ _)m
さぁ、漸く参拝出来ました、息栖神社です
鹿島・香取さんを参拝してから一年半も経ってしまった...あれ?そんなもんか!? もっと間が空いてしまったと思っていましたがアクセス的になかなか難しくて参拝出来ないままだったのです
実は今回、またしても不思議な三連休(世間様のソレとは全く違う)が出来てしまったのでやっぱしどっか行くか、やはり急遽だったので遠くはやめておいて普段行きづらいところにしよう!ということで参拝が叶いました
いろいろ調べているとなんとまぁ、東京駅から鹿島行きの高速バスが出てるじゃないの! しかも鹿島セントラルホテルで降りれば徒歩30程度で行ける(*´ω`*) 始発で向かったのですがびっくり、平日なのに結構な乗車率なんですね!!
太陽を浴びながら気持ち良く歩いた! 体力 100 ⇒ 90
というわけで到着しました、息栖神社 一の鳥居!!
常陸利根川沿いにありまして柵で囲まれ潜ることは出来ません
その理由は忍潮井、なんと伊勢・伏見と並ぶ三霊泉です
凄いですね、神功皇后3年 194年に作られたものだそうでこの辺りまで海だった頃にも海水を押し退ける勢いで淡水が湧いていたそうです、つまり押潮井ってことですね
神社を背に右手が男甕
柵の基礎部分(柵自体には乗っちゃダメですよ!)に乗って漸く見える感じで写真はスマホを持ち上げ出来るだけ上から撮りました
なんでも甕が見えると良い事があるんだとか? 思ったより澄んでいて鯉がゆったりと泳いでいる、肉眼では見えるんですけれど揺らめきと反射のタイミングでなかなか上手く映りませんねぇ、なんか見ているだけで心癒される雰囲気です
やや低く小さな鳥居、左手が女甕です
こちらの方が陽当たりが良くて綺麗に見えますね、、、おっ? なんか小さな筒のようなものが見える、、、そっちが甕が! いやー、こんな大きなものが見えたらラッキーってなんだろうって思ったんですよね、さすがにそっちが井戸ということか
それにしても何故鯉が...あっ、目の前が海水ですぐ手前なのに鯉が生きられる淡水だっていうことか! と思ったのですがさすがに現代の利根川は?
と調べてみればそれでも利根川、常陸利根川共に水門などで防いではいても遡上や船によって塩分濃度が高くなってしまうのだそうです、つまり、今でも忍潮井からは淡水が湧いているんですね
男甕側の隅には水神様か住吉様か、鉄製のお社が祀られています
それでは、いざ、参拝!!
物凄く清浄な氣に満ちているのが手前からも伝わって来ます、というか普通に道路区画ですがここも一の鳥居からの参道神域ですからね
鹿島・香取両神宮と並び東国三社とされている息栖神社、実は謎な部分もあって是非参拝したかったのです
807年に現在地へ移転と書かれていますが少し下流になる跡地の由緒を調べてみると当時は祠だったようで、右大臣藤原内麿が現在地を指定したのは忍潮井があったからでしょうか
と思ったらなんと忍潮井の説明碑左側に書いてありました(ちゃんと読めよw)、元は忍潮井も日川にあったそうですが祠が遷され取り残されてしまったた忍潮井は三日三晩泣いた後にあとを追ってこの地へ自力で移り、それでも時々日川を懐かしんで泣いたという伝説があるそうです(ちなみに現在の井戸は人為的に少し位置を移動されているそうです)
御祭神については885年の記録で於岐都説神と書かれていたことから、現在の御祭神 岐(久那斗)神、天鳥船神、住吉三神 となったのではないかと言われています、そして岐神は境であり魔除け厄除けであり道祖神でもあり、と様々な解釈がありつつもハッキリとは分かっていないとされています
なぜ謎の神なのに二神宮と共に東国三社とされているのか、それは社伝においては鹿島神・香取神と共に東国へ至ったとされる、つまり岐神と天鳥船神が先導した神だとされているからですね
境内に入るとすぐ左手にいらっしゃるお稲荷様が凄い氣で呼ぶ
稲荷社には珍しい、大黒様と猿がとても仲睦まじい雰囲気
ご由緒等はわからないのですがビシッとして重厚でありつつも親しみも感じるお稲荷様らしいお稲荷様ですね
うん、やっぱり素敵なお稲荷様が始まりだと巡拝に氣が入りますね
さて、二の鳥居を潜って息を飲んだ参道がこちら
そして見た目は普通なのに物凄く氣の良さに溢れる手水舎、手口を清めようと手を伸ばすと...えっ、めちゃめちゃ冷たい!
とっても気持ちが良くて口に含むと清々しい気分になる、にしてもなぜこんなに冷たいんだろう...? 周りを見渡すも特に何も変わった所が無かった...と思ったのですが後で調べてみるとこちらはなんと汲み上げられたお水でそれこそ忍潮井のお水のように大切にされているんだそうです! 凄く納得!
しかも、気づかなかった~(>_<) 水盤の裏側にはお水取り用の蛇口も付いているんだそうす、行かれる方は是非(。-_-。)b
振り返れば一の鳥居、うーん、美しい
前日はあまり天気が良く無かったし今朝も途中では真っ暗になるほどのどんより雲に包まれたり霧にまで包まれたりしましたがめちゃめちゃ快晴での参拝でございます
それでは、神門から御神域へ
境内左手、桜に力石と歌碑ですね
日頃、あまり歌碑は気にしないのですがパッと目に留まりました
この里は 気吹戸主の 風寒し
気吹戸主?!
ただこちらの句は芭蕉の著書という鹿島紀行には掲載されていないそうでただ載せなかったのか後に創作されてしまったのかと諸説あるようですが、、、とても気になるキーワードですね
それでは、、、心を整えて、ご挨拶!!
目を閉じ、心を込めて...ご挨拶とお礼を伝え、神棚拝詞の冒頭だけを この神社に坐す/息栖の大神 に変え奏上しはじめるとこれまでに無い不思議な風に包まれました
優しくゆっくりと腰から下だけを真後ろから流れてくる風
え? なにこの低い所だけ凄くゆっくり流れ続ける不思議な風...後ろ? ...あっ?! そう、常陸利根川、忍潮井がある
いやいやいやいや、まさかそれはさすがに思い込みが過ぎる! と強い否定の気持ちを持って冷静に感じてみるけれど、どのように感じてみても後ろからごく緩やかな波が太もも辺りから下を浸しているかのような風が流れ続けている
そんなことある?
でもどのように感じてみても、冷たいというわけではないけれどこの感覚は紛れもなく、そよ風に揺られる凪波がゆっくりと後ろから前へ流れている、その水の中に太ももから下まで浸かり立っている、目を開けて実際に周りを見渡しても当然水なんて無い、でも自分を中心に半径3~5mほどが優しく波立つ水面があるような感覚なのである、もはや視覚と感覚の不一致状態を明確に感じている
よく不思議な感覚を受けた時わかりやすい何かに例えるじゃないですか、でも違うんです、この時は例えるも何も、目には見えずとも確実に自分の周りに凪波が立つ水面が広がっていてその中に自分が立っているんです、実際には存在していない水面がどの高さで広がっているのかも見えている感覚にさえ陥っていたのです
拝詞を唱え終え、お賽銭を入れて柏手を打ち礼の頭を上げた時にはその波のような風の感覚は消えおり、周りをぐるりと見渡しながら暫くその場に立ち尽くしていたけれど普通の風すらほぼ吹くことはありませんでした
ちなみにほぼ毎日唱えているお陰で神棚拝詞と稲荷拝詞はちょっとほか事を考えながらでもスラスラと唱えられる(それでも感謝の気持ちを込める事が出来ているつもり)ようになっているので奏上を止めることなく周りを見渡しつつ上のように考えながらこの不思議な感覚に浸る事が出来ました
意味不明ですよね、目で見ていて存在しないものがちゃんとその高さで波立つように、まるでVRのように見えるだなんて...
実は、こちらの御祭神はもしかしたらもともと別の神が祀られていたんじゃないかと考えていた(後述します)ので正直、海、川、水、波というイメージは持っていなかったので思い込むも何も、あまりに想定外で驚きました
...おっと、不思議ではありつつもあまりにも心地よかったので誰も来ないのを良い事に神前で立ち尽くしてしまった( ̄▽ ̄;) それでは境内を巡っていきましょう
社殿左前にも御神木
柵があって行けないと思っていたら間が空いていてぐるりと社殿を回らせていただけるようです、社殿左手、876~1848年までのどこかで、いや、もしかしたら806年からずっと社殿を支えていたかもしれないという礎石
本殿裏が広くてとてもご挨拶しやすいのが嬉しい(*´ω`*)
拝殿前へ戻ってきました、こちらの宮桜も素晴らしいですねー
あっ、オガタマの木だ!
二社並ぶ境内社は右手に香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮、左手に鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮の9社が祀られています
実はそのまま忘れるところで記事を書き終えてから気付いて慌てて追記していますw 各社の御祭神は経津主神、手子后神社については諸説あって不明、八龍は土地的に龗神でしょうか、江神社は伊勢神宮摂社と同じであれば長口女命・大歳御祖命・宇迦之御魂神、若宮は鹿島大神の御子神?、武甕槌神、伊邪那岐命、高房神社は武甕槌命でしょうか
そして奥宮が境内社になっているのは不思議ですね、となると当社の奥宮ではないのだろうか...
うーん、神門から眺める参道もほんと素晴らしいなぁ
あれ? なにかある、と思ったら奉納されたと思われる碇のようですがとっても長いですね、そしてやはり水神として崇敬されていたようです
そしてこの参道脇の杜ですよ、凄く素敵です(*´ω`*)
参拝後にもう一度撮った男甕がこちら、太陽の角度が変わってより綺麗に見えました、真ん中に筒が見えますね(*´ω`*)
こちらが女甕、、、あれ?角度のせいか井戸の中ではなく外側に筒があるのですが...排水用?それともこれが?
意外な事に正解を探そうと調べてみたのですが地味に甕を撮影されている写真がありませんでした( ̄▽ ̄;)
さて、最寄り(凄く遠い)駅までのルートは...川沿いの土手を、そっか、正面からちゃんと見られるじゃないか!(気付くの遅っ)
うーん、とっても良い眺めである
ほんと、素晴らしいですね(*´ω`*) 来て良かった
ほんとアクセスに難があって車やバイクならば良いけれど往復を東京駅からの高速バスにしても最寄りのホテルとは徒歩30分ありますから私みたいな徒歩マンでなければ結構辛いでしょう
三社巡りバスツアーなどが便利ですが各社での参拝時間に限りがあると気になってしまって落ち着いた参拝が出来ないですものね
ただ、そのお陰と言っても良いでしょう、タイミング次第かもしれませんが人が少ないお陰でこんなにも素晴らしい神社をほぼ独り占めで落ち着いたご挨拶が出来たのは最高でした(*´ω`*)
とってもオススメな神社であります!
素晴らしい参拝で体力が少し回復した 90 ⇒ 95
さぁ、ここからは...徒歩75分です(爆)
予報を見ていてちょっとだけしていた心配を返せ!ってなくらいの好天の元、晴れ男全開で歩いていくぞーっ!!
そして今回の巡拝、ほんっと、天気予報と9月半ばという甘読みで過去イチ確定レベルにキツかったので体力推移を導入してみましたw
というわけで後述にございます...ちょっと長くなります(苦笑)
息栖神社の御祭神 岐神、実は謎の神様です
古事記には登場しないが、イザナギが黄泉から戻り禊をした際に脱いだ褌から産まれたチマタノカミ(ヤチマタ)が同じ神だと言われてもいるが違うという説もあり個人的にはあまり同神とは思いづらい
日本書紀では黄泉で「これ以上来るな」と投げた杖が来名戸之祖神となったのが岐神だとされている(別書では衝立船戸神ともされる)、これにより門の神、水門の神とされているようで、社伝による二武神を先導した神としての記述は記紀とは全く異なります
タケミカヅチは出雲の浜へ十束剣を突き立て…となっているので大陸?から来たとすれば海を渡る船頭が岐神ということになります、二将軍が鹿島と香取に祀られたのでその中間であり海(川)の畔に水神として祀られたという考え方も出来るでしょうか
...なんかモヤモヤする
そもそもなぜ二武神が関東に祀られたのかについては、まぁ国譲りを約束させた後に従わぬ者を討伐しながら関東で完遂した(もしくは報奨として関東に領地を与えられた?)と考えることも出来るのですが、大きく貢献した神として二武神と並び東国三社として祀るというには神宮と祠、さらに年代にも大きく開きがあるというのはどういうことでしょう
さて、このモヤモヤしたところでホツマツタヱを活用してみるとちょっと無理がありつつも少しスムーズになります
ホツマの真偽は置いておきザックリ書けば高天原は富士、日高見は東北太平洋側でありミカヅチとフツヌシは鹿島から出雲へ向かったのです、だから本拠地関東に祀られているわけです(まだホツマは現時点で14/40アヤまでしか記事を書けていないので今後解釈が変わるかもですが)
息栖神社の本来の御祭神はアメノコヤネとその妻?という説があります
はぁ?と思われるでしょうが、ホツマによればタケミカヅチに娘の嫁入り先を頼まれたフツヌシ甥っ子を紹介した、それがアメノコヤネだというのです
春日はアメノコヤネが継いだ職位です、つまり春日大社は偉大な叔父とコヤネ、そして妻と偉大な父ということになるのです
部分部分だけを切り取って聞いてしまうとただの作り話のようにも思えないますが全体を読んでいくととてもそんな単純な偽書だとは思えないのですが、まぁここではそれは置いておきましょう
またホツマには(解釈によりますが)、アメノコヤネは京都で葬られ妻であるヒトリ姫はイキス宮に夫が祀られる西向きに祀られたと書かれています、ちょっと距離はありますが確かに息栖神社は西向きに社殿が建っています
ではなぜ夫の近くではなく遠い関東に祀られたのかと考えれば、息栖には宮があったとされるわけですからそこに祀られても不思議は無く、また父と義理の叔父の近くでもあるわけです...まぁちょっとだけ無理は残りますねw というわけで、恐らくその無理を考えてアメノコヤネとヒトリ姫が夫婦共に祀られていたのではないかという説になっているわけです
これに関しては私としても十分な納得は出来ないのですが、ただ、東国三社とされるのに相応と考えるとやはりコヤネ夫妻以外に適した神は存在しない気がします
気になるところといえば、日川に祀られていたのが祠だったというところでしょうか、ホツマ通りと考えるにしてもコヤネやその妻だったらもう少し立派な祀られ方をしていても良いような気がする
じゃぁ結局どうなんだよ、ってことになるわけですが、、、
わかりません(*´ω`*)
現状で最も納得出来るとすれば、実際に鹿島香取と息栖の創建年代に大きく開きがあることを考えれば本当に水神としての岐神が祠に祀られており、藤原内麿がそのご利益を二武神に併せるため神社として二神宮と等しい位置へ遷座させ東国三社としたのではないだろうか
ホツマに出てくるイキス宮が実際にあったのかどうかが物凄く気にはなりますが、なんと遷座前の地 日川には西向きの前方後円墳が残っているというのです! まぁある程度の豪族さえ入れば古墳があっても不思議ではなく比売神のものかどうかは別としても、この神栖の地に宮があった可能性を否定することも出来ないわけですね(。-_-。)b
さらにこの親戚関係が事実であれば、春日大社御祭神の謎に対して凄く納得が行くのです、息栖神社を遷座創建させた藤原内麿はその当時宮中の要職にあって右大臣や左大臣になるなどかなり力を持っていたそうなのですが、つまりは京に居たはずなのになぜ遠い関東の小さな祠を息栖神社として創建させたのかという謎に繋がります
勘の良い方ならば あっ と思われるでしょうか、まぁこれもこじつけという味方も出来ますが、藤原家の祖神こそが天児屋根命とされているのです
例えば...藤原氏が祖先であるカスガ神 天児屋根命を偉大な武神である叔父、義父と併せ祀って春日大神とすることで子々孫々までさらに権威を高めようと768年に創建したのが春日大社、そして後に内麿が整備したのが息栖神社だったという事になります
ただし、なぜ春日でもコヤネでも比売神でもなく岐神として祀られたのかという謎は解けません、やはりクナト神についてもう少し調べる必要がありそうですがホツマにはクナト神が出て来ないのですよ
つまりどういうことか、やはり創建(遷座)当時は記紀の時代であるということが鍵になるのではないか
もし祠がコヤネを祀るものであったとしたら岐神とはならなかったでしょう、ホツマの通りコヤネは大阪?に埋葬、さらに祀られヒトリ姫は息栖宮に留まって亡くなり、ここで埋葬された、つまり祠には春日大神のひと柱である比売神だけが祀られていた
海沿い川沿いという立地であり女神は陰であり水神であるということを併せ、関東を守る岐神という名で祀ったという可能性はそれほど低くはないような気がします
もしそうであれば、社伝と記紀に相違がある謎の神が祀られさらに一社だけ年代的に新しく、規模も二神宮とは大きく異なるにも関わらず東国三社と称されている事も当然といえるでしょう、だって春日四神の三柱なのですから
全く何の根拠も信頼も無い私の感覚(思い込み)ではありますが、参拝の時に感じたあの優しく穏やかな波の中に立つ感覚も比売神様の優しさと癒し、そして水神としての事だったと考えると物凄く腑に落ちます
ちなみに 何か繋がりが?! と思った芭蕉歌碑の気吹戸主ですが14アヤまでを読んだ限りではこの地や三柱との繋がりは読み取れませんでした、それこそ大祓詞に出てくる水神でもあり祓戸大神としてのイメージとして詠まれたものだったのかもしれません
...?! 待って、この俳句は拝殿前で感じたあの波のような感覚と同じものを言っているのか?! とも思ったのですが 風寒さ というような冷たさなど無くて逆に凄く適温と言うと変ですが心地良かったのでさすがに違うでしょうね...でも冬だったら寒風に感じたかもしれません(苦笑)
実はいつも通りこの記事は調べ考えながら書いているので記事がどういう結論に落ち着くのか自分でもわかっていません、後述を書き始めた時点では天児屋根命夫妻が本来の祭神である可能性が高い!的な結論になるのではないかと想定していたのであの波の感覚は一体なんだったんだよ!と自分でツッコむ事になるだろうと予想していましたw
正直、三社のうち二神宮を参拝したのだからこちらもご挨拶しておこうという程度のちょっと軽い気持ちでしたからサラッと終わって記事も結局よく分かりませんでしたっ!ってサラッと終わるものだと思っていました
まさか過去最大規模だろうという感覚をいただき、ここまでガッツリ(結論は不明ですけどね!)深堀りすることになるとは思っていませんでした
あぁ、そうかぁ...やっぱり水の神様からは何かしらの御縁を頂きやすいのかもしれないなぁ(*´ω`*)